「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会

会報「平和の絆」1号より


会報発行にあたって


広島の会 会報第一号を発行
 
 原爆展を成功させる広島の会は、2003年11月に会の活動の発展と平和運動のいっそうの広がりを願って会報第一号を発行しました。以下、その記事のうちのいくつかを紹介します。
 
 会報発行にあたって
                        原爆展を成功させる広島の会
                        代表世話人 重力敬三
 
 下関の被爆者の会のご支援により旧日本銀行での原爆展は参加者が4000人をこえる大成功でした。以来、広島の各地で転々と原爆展を開催することができましたことを非常に喜んでおります。被爆の地広島の面目を一新しました。そして、被爆の体験を語る人々がだんだん多くなりました。核の恐ろしさが若い人々にも浸透してきたと思います。
 このたび、会の団結と充実、発展のもう一歩の前進をはかるために、会報を発行して多くの皆様に読んでいただき、益々のご協力と賛同をいただくことになりましたことを非常にうれしく思っております。
 私は昭和17年4月1日に、一銭五厘のはがき一枚で西部第10部隊に召集されて入隊しました。以来軍務に精励して、昭和20年8月6日の被爆当日は中国軍管区兵器部に下士官として所属。牛田工兵橋の北側の道路を自転車で走行中、自転車もろとも横転して両腕と顔面を火傷して、東練兵場の東照宮の下までいって火傷のあとに油をつけてもらい、二又土手の奥の女学院の作業場に急ぎました。夕方になっていて一面火の海のようでした。道々で会う人々は焼け落ちた衣服で助けを求め、水をほしがっていましたが、人々の話を聞いてあげることもできず、兵器部の集結場に急ぎました。ほんとうに地獄の中を歩くようでした。
 集結場には将校、下士官、兵隊、雇用人が20数名集結していました。そしてみんなで力を合わせて南瓜の汁に乾燥した肉をいれて夕食を食べて一夜をあかしました。当時,福屋の本館は無事で治療所になっていましたので、牛田から焼け野原をを通って火傷の治療にいきました。充分な医薬品はなく、赤チンをぬってもらって包帯をする程度した。なかなかよくなりませんでした。
 10月31日に兵役免除となり地方人となり、東蟹屋町の小西という知人の家で生活して、熊平金庫の工員となりポンプの修理や金庫の修理で戦後の復旧に働きました。昭和23年に国鉄に採用されて53年に退職し、現在83歳ですが、元気で平和運動に参加しております。
 本年8月に福屋本店で開催した広島市民原爆展は、7000人の参加者で大成功でした。パネルを見学される人々の目と態度が以前より変わったように感じました。峠三吉の「原子雲の下よりすべての声は訴える」のパネルを使った原爆展は全国各地、さらにはニューヨーク等世界に広がりました。
 8月6日には福屋で被爆者の交流会を開催しました。県内外をふくめて30数名の参加者がありました。皆さん熱心に討議されて涙を流しながら語られる方もありました。盛大で感激しました。
 しかし、被爆の地広島の訴えをあざ笑うかのように世界の戦火は消えず、新たな核拡散の危険すら増してきました。被爆の地広島はどう訴えてゆくべきか、どうすればよいのか大声で叫びたくなります。
 被爆して亡くなられた多くの魂が安らかに眠れますよう、被爆体験を風化させないよう、核兵器により同じような不幸な出来事がくり返されないよう、平和運動を展開することが私達生きているものの使命だと思います。この会報によって、私達の平和運動が全国世界各国まで発展することを信じています。会報の記事その他についてご意見とご希望をお寄せ下さい。
 
  
 
力を結集し崩れぬ平和を
                         原爆展を成功させる広島の会
                         代表世話人 田中武司
 
 私は58年前に、中学校1年で学徒動員で疎開地の整地作業をしていて被爆しました。以来、この焼け野原となった広島を復興させるための一員として、一生懸命に働き尽力してきました。あのいまわしい地獄絵である原爆体験は思い出したくもないです。これまでただ復興のみに一生懸命になってきましたが、最近になっていまわしい原爆をまた使用する、しないということがいわれはじめています。
 県外から来られた方が、「広島の方にはひじょうに気の毒だが、この原爆のおかげで平和が早くなった。結果としていいのではないか」という意見を聞いたので、私もたいへん腹が立ちました。では、あなたのお子さんが瓦礫に足をはさまれて、「お父ちゃん、助けて」「お母ちゃん助けて、熱いよ、熱いよ」と叫びながら、あなたの目の前で生身のまま焼け死んでも、この原爆が落ちて良かったと思いますかと質問したところ、「悪いことをいいました」とあやまりました。
 このように原爆の恐ろしさは、ただ口伝えに聞いただけではわからないのです。いまわしい惨劇を二度とみたくなかった、思い出したくなかった。しかしこうした意見を聞くにつれて、ふたたび惨劇をおこさないために、いやな思いを殺してでもこの惨劇を皆さんに伝えていかないといけないということ、これが使命だと感じて原爆体験を語るようになりました。
 一人の人間の力は微々たるものです。何十億という人のなかで一人の力は吹けば飛ぶようなものだが、そうした力が一人二人と結集することにより、ひじょうに強い力になる、無限の力になるということを私は信じています。
 多くの人に原爆の恐ろしさを伝えることで、平和を保っていくのだと思っています。なかにはアメリカや外国で、原爆がよかったというが、どんな理由があろうと、どんな状況があろうと、こうしたいまわしい原爆を使用することは絶対に許してはなりません。そのためには、無限の力を持つ皆様の、平和を願う力を結集してこそ、この平和を守ることができます。
 武力により、力により犠牲者をだしてえた平和というのは、真の平和ではんあい。欺まんの平和です。いったんなにかあると、もろくもすぐに崩れ去ってしまいます。真の平和を皆さんとおたがいに話し合って、納得したうえでの平和は少々のことでは崩れることはありません。原爆で亡くなられた方の鎮魂と、真の平和を願ってやまないです。
    (峠三吉の時期の運動をめざす2003年原水禁広島集会で発言から)
 

 「私と原爆展」
                           大野町在住被爆者
                           竹村伸生
 私は、旧制中学1年生12歳のとき、学徒隊(学徒動員)として爆心地から八〇〇メートルの八丁堀の市電白島線(現在の白島線の西五〇メートル)の沿線で、建物疎開の後片づけ作業に出動中屋外被爆し、顔右半分、帽子から下の後頭部と右腕に火傷を負い、脱毛もしましたが、九死に一生をえることができました。出動中の犠牲者は教員七名、一、二年生の生徒四〇〇名余りで数少ない生存者の一人です。
 原爆展との関わりは、二〇〇一年一一月旧日本銀行広島支店で開催されていた「原爆と峠三吉の詩」広島原爆展を見に立ち寄ったことが始まりでした。そのとき「なぜ下関の人たちがこの広島で原爆展を」と、広島の被爆者として恥ずかしい思いを抱き、以来各地の公民館等で開催される原爆展に足を運び、お手伝いをさせてもらっています。
 特に、廿日市原爆展や福屋デパート本店で開催された「原爆詩人・峠三吉没五〇周年記念 広島市民原爆展」では賛同協力者として参加させていただきました。
 広島市民原爆展は、下関原爆被害者の会との共催を得、賛同協力者の広がりや暑い中での市内各地域、平和公園でのビラ配布、福屋デパートの協力等で、七〇〇〇人もの多くの入場者がありました。
 展示会場では、今まで原爆のことを語らなかった人たちが堰(せき)を切ったように語り出して話の輪が広がり、その場で証言される方も何人かおられました。また、展示物を持ち込まれる方もあるなど、被爆者の思いが変わってきたのではないかと思います。この成功は、イデオロギー的偏見が感じられなかったのも一つの原因だろうと思います。
 私は毎年八月六日前後におこなわれる行事は、その場だけのお祭り騒ぎに終わってしまっているように感じています。平和運動は大変ではあるが、粘り強く続けることと思います。「継続は力なり」といいます。
 今年の一〇月五日、原爆展を成功させる広島の会が発足後二年を迎え、会員制をとって会を充実発展させることになり、これから広島も頑張らねばならないと思っています。広島、長崎の悲劇を語り継ぎ、核兵器廃絶と恒久平和のために頑張りたい。

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