「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会

山本正子さんの被爆体験



平成15年 原爆追悼記念式


8月5日 翌日6日にあんな大事が、起きるとは夢にも思わず、でも8月5日と云う日も私に取りまして、忘れ得ぬ一日でした。それと申しますのが、段々広島も危なくなり、両親が心配しまして、可部線の八木の村長さんの借家をお借りして、祖母、姉、私の3人が疎開致しました。
その頃は、「銃後奉公」と云う言葉が強く、広島市民は自分の家は自分で守るということで、家を放って出るとお米の配給を止めるという決まりになっていました。それで、両親が残り二人で家を、守っていてくれた次第です。
 丁度5日の日は、私の小学6年時の先生が盲腸を手術して全快なさり、6日に退院と云う事で、お顔を見に行き、「家の方へ、遊びに来いよ」と言って下さいましたが、5日に退院だったらまた、お会いに出来たのにと、悔やまれます。病院から家に帰りますと、我が家の前の新藤仏壇店と云う仏壇を造る奥深い家がありました。其処には、腰の曲がったあばあさん、おじさん、おばさん、陽太郎、千恵子、恵美子、三人の可愛い子供がいました。おじさんは応召がかかって、戦地です。父が銃後奉公会の会長をしてたので、其の留守家族には、心した様です。
 私も子供が大好きでしたので、長男の陽ちゃんは、特別可愛がりました。その子はいたづらっ子で、布団の裏地の反物が重ねてある所に、馬乗りになって、おしっこをお漏らして、全然使い物にならなくなり、洗って、我が家の布団に、そしてスカートの裏地等にしたものです。
 「8月5日の夕方、お姉ちゃん、広島が危ないから尾道のお祖母ちゃんのところへいつとたんぢゃあー。尾道もあぶないけー、明日の朝、砂谷へいくんよー。」と挨拶にきました。 「陽ちゃん、大きくなったね。 一年生?よく勉強が出来るんだってねぇー。」と久しぶりと、懐かしさに「新藤のおばちゃんのお手伝い、そして千恵ちゃん、多恵ちゃんと仲良くしてね。」と別れ、私は久しぶりの母の手料理をゆっくり味合いお風呂に入って「早く帰らないと暗くなるから」といって、追い立てられ、でも私が角を曲がって見えなくなるまで、母の姿があり、今から思うと虫の知らせだったのかと、いい別れをしたと思います。
 8月6日(八木村)朝8時15分 「ドカンー」という音がして、近所の人が「何かが落ちて来る」と知らせて下さいました。外へ出てみると、本当に流れる様に何かが落ちてくるのです。でもそれから何事もないのでホットとしていますと、人々が次々と逃げて来られる様になり初めの内は、顔や手に白い薬をつけて来る人、胡瓜の輪切りをペタペタ貼って来る人、段々と何もなしで、足をひこずったりする人、「何があったのですか」と聞きますと、爆弾が落ちたと。「何処に」と言っても返事はバラバラで、おかまに残ってたご飯をおむすびにして姉と二人で出掛けました。
 途中の三滝まで言ってさあーそれから見たものは、「生地獄」です。中学位の男の子、目は張れあがり、手の皮は、ブラリと垂れ下がり、避難所の小学校へ行って見ると「水、水」と叫ぶ声、「おかあちゃんー、おかあちゃんー」と泣き叫ぶ声。もう、とても其の場所にはおれません。町内で決められた避難所がありましたので、行って見ると、父と川原まで一緒だったと知らせて下さったので急いで帰りました。「良かったね」でなく、姉と私の口に出る言葉は、「おかあさんは?」でした。父がポッツリ、ポッツリ話してくれたのは、「朝ご飯済ませて、一服と云う時に、警報がなり、すぐにドンと大きな音がして、自分は冷蔵庫の横にしゃがみこみ、少しすると静かになったので、「昭子、昭子」と母の名前を呼んだけど全然返事がなかった。母は丁度後片付けをしてた時刻で頭の上は二階でそれが崩れたら生きていません。それが父の頭の上は“日だな”と言って、木で作った洗濯干し場だったので、瓦の壊れが少しと、木切れが少しと言った程度でよかった様です。
 でも、平素何事があっても、という服装をしてたので、足に巻いてたゲートルをすぐに包帯代わりに頭にまき、丁度其処へ「おじさん、一緒に逃げよう」と手を引っ張ってくれ、四、五軒行ったら、帽子屋のおじさんが、「オイ−、片足がどうしても抜けんのぢゃあー。引っ張って見てくれやあー」と。見ると周りにチラチラ火が見えます。「人を呼んでくるから、まっとれよ」 と青年と共に其処を去ったそうですが、どう歩いても手助けしてくれるような人には会えなかったそうです。横川の河原の方へ出ると、黒い雨が降ってきて、其処から私達のいる八木に向かって逃げて来た。と話してくれました。頭に手を当てて見ると、少し熱があるようで、早速に小川の冷たい水を汲んで冷やすと、落ち着いた様です。
 8月7日 あれでも何処かに、母がにげてくれてたら. . . .の思いで市内に姉と行きました。 まだまだ熱くて入れません。
 8月8日 お隣のおじさんが、シャベルを持って一緒に行って下さり、少し熱かったのですが市内へ入る事が出来ました。その道すがら出会うのは、死体、死体の山です。
なんとも云えない、異様な臭いです。丁度その早い時間帯は、郊外の農家の人が町中へ、下肥を貰いに行く時間なのです。荷車がひっくり返り、その前には、馬のはらわたが飛び出して横たわり、少し進むと、おかあさん、その前になげだされた様に子供、全部からからの黒焦げの死体です。一瞬私は、何処の世界にいるのかと、思う様です。
 心の中で手を合わせながら、やっと我が家につき、父の言った周りを探しますと、白い歯、金歯、真っ白く焼かれた骨が出て来て、母のだとすぐわかりました。 箱に入れて持ち帰りましたが、父とすれば、あれでも何処かへ逃げてくれるのではとの、思いがあったのでしょう
 それに、帽子屋のおじさん、見て来てくれと云いましたので、行って見ましたら、父のいった所に死体がありましたので、「おじさん、ごめんなさいね。父は、自分の事で精一杯だったのでしょう。許して上げてください」と、よくよく手を合わせて拝んで帰り、父にはわからなかったと、云っておきました。
それからと云うものは、父の容態が悪くなり、なんきん色の尿、体に赤い斑点、食事は進まず、手の尽くし様がありません。唯姉と私とで近くの山から流れてくる冷たい水で頭をひやして、あげるぐらいです。とうとう二週間目の19日の朝、息を引き取りました。普通なら、泣いて父の死を悔やんであげる子供を演じるのでしょうが、死体の始末、お棺は? 焼き場は? もろもろの事が?。私はまだしも、姉はどんな気持ちだっただろうかと、今になって有難く思います。あの時は、大きな木の箱を見付け、父の死体をいれ、近所の荷車を借りて、太田川の川原へ運び、木切れの上に箱を置いて、火をつけて、夕方骨をひらって、帰りました。普通からいいますとちゃんとしたお弔いも出来ず、最後の締めくくりが淋しく、情けないとも思いましたが、あの死体の山と考えると、誰ともわからず、引き取りてもない人の事を考えると、母も父もまだまだ良かった分だと思います。
 自分の事ばかりでしたが、8月5日に会ったあの陽太郎くん、家族の人から聞いた所によると、6日の朝、砂谷に行くのに支度をして階段の下に座っておかあさんを待ってたそうです。おかあさんの方も支度をした所へ、「ドン」と爆弾が落ちてきて、「おかあ?ちゃん、助けて?、助けて?」と泣きながら訴えた様ですが、その時おかあさんは、下敷きになって、気を失い、なんとか外へ這い出て、さあと立ち上がった時に、「おかあちゃんたすけてやあ?」と陽ちゃんの声がしたのだそうですが、もう見ると、周りに火がチラチラ見えるので、自分の体が精一杯で、お祖母さんと、二人の娘の待つ砂谷へ歩かれた様ですが、己斐の方のお寺の避難場所で亡くなられた様です。お腹に穴が空いてたとの事でよく此処までと、お手伝いの人がびっくりなさってました。
 まだまだ、もろもろの事、忘れてほしくない事、伝えたい事、一杯ありますが、原爆の犠牲の上での、今の「広島」があること、また、二度と「広島」の様な悲惨な思いはしない、させない様に若者達、頑張ってください。

         平成15年 原爆追悼記念式

 お早うございます。ようこそ山口からわざわざ広島原爆記念式においでました。ちょっと真似しましたが、駄目でしょうか。実は、私の母は山口市八幡馬場で生まれ、山口県立女学校を卒業して、広島にお嫁にきました。そんなご縁で山口からと聞くと、身近に思います。その母も父も原爆で亡くなりました。今日は私の見た原爆を語らせて頂く前に、どうしても皆さんに聞いて頂きたい事があるのです。
 それは、原爆の落ちる3年前の話です。段々とあちらこちらに、爆弾が落とされ、広島も危ないので、そろそろ親達が考えて、田舎の親戚の部屋を借りたりして、全員が引っ越した家も少なくない様でした。殊に子供、年寄りは心配のない所へ置きたいものです。
 その当時私は、高等師範学校の化学教室の方へお勤めしていましたが、その側にあります広島大学が赤煉瓦の建物なので、敵の飛行機から見ると、目立つから爆弾が落ちてくると母が心配してくれ、丁度 私の母校本川小学校が広島県三次市十日市へ3年から6年まで、疎開児童として、3軒のお寺の本堂をお借りして、4月から疎開する事に決まり、その寮母として、母がお願いした様です。
 私も子供が好きなので、ましてや知った子もいましたしし、楽な気分で行きました。男の子3年から6年まで、各40名 3つのお寺に別れて生活していましたが、私の所は、男の子40名でした。きはじめは、キャァキャァいってましたが殊に3、4年生は夜お布団に入ると、シクシク泣き声がします。ましてやおやつなんかありません。食事もご飯とおかずも野菜、それも学校から帰ってくると、山の方へ皆な私達と取りに行くのです。
 5、6、年生になると、学校の帰りにトマトが赤く熟れてたりきゅうりの出来たのをどのへんか目印をつけといて、暗くなって取りに行くのですが、間違えて、あおいトマトを採ってきたり、後にお寺の子供だとばれて、謝りにいくのは、私達でした。それに蛙を調理して焼いてたべたり、すずめの毛をむしって焼いて食べたり、今頃では考えられない事をして、日々を過ごした子供達です。
 その子供達の中に、私にとって、忘れられない子供が二人います。当時3年生、私にとっては、子供でも、今はN中学校の校長を定年になって、N学園の園長をして親のいない子供達をお世話していられる様です。原爆があって次々と親とか親戚の人が連れに来られるそうですか、その園長先生には誰もみえず、とうとう色々親戚さがして、あづかって貰うという人生を送り、学費を出してくれる人があり、子供の時の苦しい思いが現在N学園の子供達に暖かいおもいに、なってるのだと思います。
 もう一人も、やはり原爆から後に、誰もむかえにこずとうとう自分の家に帰って見たようです。その時にたまたま私と会い、懐かしさと、どの様にして帰ったのかとか、これからどうするのかとか、色々聞きますと、「おかあさんが帽子のふちの裏側に銅貨を糸で一つ一つくくりつけて、帰りたくなったらこのお金を鋏できって、汽車で帰っておいで」と、そのお金を使ったと話してくれました。そしてこれからどうするのと聞きますと、五日市のおばさんの家にいって置いてもらうと、チョット心配でしたが、何年かして会ってみると、よく手伝いするらしく、中学校までバイトしながら行かせてもらったようです。近頃、チョット体を痛められて、それ迄は、原爆手帳入らないといってたのが、証人になって下さいと、来られたので早速に書類を作って出しましたら、すぐに下さり、お役にたてたのが、嬉しくおもいました。
 原爆の前から原爆の後までずーとドラマは続いています。会長先生は、前向きで教えてくださいます。でも年を重ねた私達には前向きなんて無理よ、いってしまえばそれ迄ですが、昨年追悼記念資料館と云う原爆の資料を何時までも残して下さる所ができました。その中に両親の写真と私の体験した5、6枚の綴った物を入れていただきました。孫の一人が今介護の方で老人ホームへ行っています。車椅子を押しながら、記念資料館へいって私の提出物を見た様です。「おばあちゃん、やるねえー」と褒めてくれました。もうーそれで充分です。
 でも、今年中国新聞から姉の所へ見えて、山口の長周新聞から依頼があり、昨年8月6日に小学校がカタリベさんではなく、普通の原爆体験者から小学校の方もグループで聞くと云う方式でやられると、凄く子供達に反響があり、現在子供中心な事件が多いので、先生方、PTAの方も考えられるのだと思います。こうして会長先生の教え受けながら、人様のお役に立てればと申しましても微々たるものですが、幸せを感じます。

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