廿日市と呉の原爆展 |
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平和のために語り継ぐ熱意あふれ ―痛苦の体験を語る被爆者、戦争体験者― 廿日市、呉で原爆展が大成功 原爆展に思う 平和運動の発展に明け暮れる毎日ですが、二〇〇四年も、節分が過ぎて、桜の開花も近くなりましたが、会員の皆様には、益々御健勝のことと、お喜び申し上げます。 原爆展を成功させる広島の会 廿日市市民原爆展 被爆関係者が多数訪れ体験を語る
一月六日から一二日まで、はつかいち美術ギャラリーで開催した「原爆詩人 峠三吉没五〇周年記念 廿日市市民原爆展」には、実質六日間で、被爆者、戦争体験者から小学生まで各年齢層八〇〇人が参観し、大きな成功をおさめることができました。アンケートは一九六枚が回収されました。この原爆展は、被爆者をはじめ、医師会、町内会、老人クラブ、元女性会役員、公民館、お寺、商店会、学校関係者など、廿日市市と周辺市町の多くの方々の支援、協力をえてとりくまれました。 自衛隊のイラク派遣やアメリカでのエノラゲイの展示といった状況のなかで開かれた今回の原爆展では、パネルや峠三吉の詩をつうじて、原爆や戦争の悲惨さがあらためて思い起こされ、被爆体験や戦争体験の風化をいましめ、「二度とこのような惨禍を繰り返してはならない」という声が強く聞かれたことが特徴的でした。多くの被爆者や関係者が、被爆の体験や原爆で親や兄弟、学友をなくした言い尽くせぬ思いを語っていかれました。戦争を知らない若い親世代も、平和な世の中を子どもたちに残すことを親の責任として、子どもと一緒に積極的に参加する姿が目立ちました。金剛寺小学校からは六年生がクラス全員で参観して被爆体験を真剣に聞いて帰り、多数のアンケートを寄せてくれました。 峠三吉の詩と、平和を訴えるその姿勢に強い共感と尊敬の念が語られ、「じっくりと詩を読んでみたい」「多くの人に広げる必要がある」という意見も多数寄せられました。峠三吉にゆかりの人や「原子雲の下より」の関係者が会場を訪れたり、原爆展を通じて五八年ぶりの新たな出会いや発見が実現したことなども印象的でした。 戦争をふせぎ、平和の力を大きくしていくうえで、こうした地域的な原爆展を数多く積み重ねていくことが大事であることが、あらためて確認されました。 今回の廿日市原爆展は、学校、地域に被爆体験継承の運動を広げていく端緒を開くという大きな成果を残しました。二月二九日に開かれた相談会では、今後、公民館や地域などで巡回原爆展をおこない、学校でも原爆展パネルを活用してもらうよう働きかけることが積極的に論議されました。「平和な未来のために子どもたちに語り継ぐ」運動のいっそうの発展が期待されています。 二回目の原爆展を終えて 寒さのきびしい一月の初め、廿日市市美術ギャラリーにて二回目の原爆展が開かれた。八百余名の人達にご来場を頂き大成功を収めることができたことを一応はうれしく思っている一人ではある。しかし考えてみるとまだまだ多くの人々にお越し頂いてせめて千人という数字にならなかったものかと、しみじみと思っているこの頃です。直接被爆されている人でも、もう二度とあのような悲惨な写真など見たくもない。どうしても見る気にはなれないと、ひどい口調でいわれる人も少なくないという現状があるけれども、このような思いは、とても悲しいことに思われてならない。 元廿日市市女性連合会会長
小学生に体験を語って 平成一六年一月六日から廿日市市美術ギャラリーで開催された原爆展に、廿日市市立金剛寺小学校の六年生が校長先生と担任の先生と見学に来られました。 廿日市市宮内四丁目 原爆展に参加して 展示会場に私どものためにコーナーを作っていただき感謝したします。 このような子どもたち、廿日市市の方々、来場してくださった方々と接したことにより、真の優しさをいただきました。亡くなった兄も見ていたことでしょう。高齢の母もとても嬉しく受けとめております。このような体験をさせていただいた中で感じたことは、言葉がいりませんというか、いらないのです。一人一人が目で見て、身体で感じてくださっていることが心に伝わってきました。 石津ユキエ 金剛寺小学校六年の先生のお礼の手紙と生徒の感想文より 「 先日、さくらぴあでの廿日市市民原爆展では、たいへんお世話になり、ありがとうございました。子ども達も、今の子ども達なりにそれぞれ精いっぱい受けとめ考えていたようです。感想を一部送ります。遅くなり申しわけありません。つたない文章ではありますが、どうぞ読んでください。 お話をしてくださいました方々にも、くれぐれもよろしくお伝えくださいませ。 私も、子ども達のためにも、戦争のない核兵器のない平和な世の中にしなければ、という思いをこめながら、日々子ども達と接していこうとさらに強く思いました。本当にありがとうございました。」
▼改めて、戦争はだめだと思いました。私は最初に戦争の時の体験の話を聞かせてもらいました。それは原ばくが落とされた日、学校へ行った中一の子が亡くなってしまったという話でした。その子のお母さんは、「あの時学校に行かせなければよかった」と言っているそうです。この事を聞いて、戦争は悲しくて罪もない人達まで殺して、二度とこんな事はしてはいけないと思いました。話を聞いて写真を見ました。どれも見るのがつらかったです。けど、これからいろんな人に伝えるにはちゃんと見て伝えないといけないので、つらくてもちゃんと見ました。ちょっとの間でもたくさんの人が亡くなったと聞いてびっくりしました。他にも原ばくで負ったやけど、今でも残っている原ばくしょうの被害など、いろいろな写真を見ました。アメリカは原ばくを落としてよかったと言うけど、私はそうは思いません。もっと別の方法を考えて、戦争をやめればよかったと思いました。また、このような事をくりかえさないためにいろんな人に伝えていきたいです。 (金剛寺小六年、女子) ▼展示を見て、自分と同じぐらいの人まで原爆にあって、やけどをおってしまって、そのやけどからうじ虫がわいて、それを新聞につつんでプチプチつぶしていたと聞いたとき気持ちがゾッとしました。原爆の展示されている物すべてが悲惨な物ばかりで少し気持ちがよくありませんでした。原爆の名前がいかにもいいようにつけられていたので、なんであんな名前にしたのか不思議におもいました。戦争というものがこの世からきえるように願っていきたいです。 (金剛寺小六年、男子) 廿日市原爆展アンケートから ▼原爆写真はいつみても心がつぶれる思いがします。戦争をして誰が犠牲になるのか、関係のない一般市民が苦しむだけです。許せません!トップの人は痛くもかゆくもない。今、イラクへの派兵が取りざたされているが、絶対に行くべきではない!! 有名な父をかえせ・・・以外にこんなにもたくさんの詩で率直に訴えているのにあらためて感じました。 (無記名) ▼写真や展示の説明にも原爆の悲惨さがよくあらわされていましたが、峠三吉の詩にとても心をうたれました。原爆で亡くなったのは軍人でも政治家でもなく、ごく普通の生活を送っていた人人だったこと、あらためて思い知らされました。峠三吉の「怒り」がストレートに心にひびいてきました。 (無記名) ▼私も六才頃に原爆にあい、母と一緒に逃げました。でも私は、おかげさまで無傷でこれまで生かしてもらいました。あの時に亡くなった人達の為にも頑張って核兵器の使用反対を叫びたい。アメリカという国は戦争にいつも首をつっこみ懲りない国だと思う。全世界にこういった展示をする必要があります。 (六四歳、女性) ▼最後の日にやっと見に来ることができました。戦後五九年といいながら、戦前になろうとしているいまのこの時代、戦争反対、核兵器廃絶を! プレスコードの下、峠三吉が命をかけて訴えようとした中身の大きさに驚く。視点のするどさはさすが、というしかない。米国の原爆投下の真実を見ぬいている。 (五三歳、男性公務員) ▼峠三吉さんのことが詳しくわかり、いまの時代(戦争に加担しようとする動き)に、もう一度考えなければならない、タイムリーな展示だったと思います。原爆のことについては、暗く、目をおおいたくなる絵や写真が多いので、気がすすまないが、これが現実だということを子どもたちに伝えていくのが大人の役目だとあらためて思いました。あの当時、反戦を訴えられていたことに心をうたれます。 (五一歳、女性教員) ▼見ているだけですごいつらくなった。もう二度とくり返してはいけないと思った。今、日本は自衛隊をイラクに派遣する事になったから戦争が始まるかもしれないのでこわくなった。原爆はもう絶対イヤだ。もっとたくさんの人、全国の人にこの展示会を見てもらいたいと思った。 (一五歳、女子) ▼最初見た時はこわくて見たくないと思ったけど、私のためにも、みんなのためにもがんばって見ました。原ばくのせいで人が死んだり、建物がこわれたり、原ばくを経験している人たちはすごくきずついて心も体もボロボロで、写真を見ただけでその時のじょうきょうなど頭の中にうかび、悲しくなりました。原ばくはぜったいだめです。得る物、それは、人の悲しみ、苦しみだけだと思います。もっと小さい人たちに伝えたいです。とうげさんがいなかったら、原ばく展もこれなかったし、原ばく者の苦しみ、悲しみは知れなかったと思います。私は原ばく展はとてもいいことだと思います。原ばくを知らない人に伝えれるからです。これからも続けてほしいです。 (金剛寺小学校 六年生女子) 呉原爆展が大盛況のうちに閉幕 盛り上がる語り継ぐ気運 呉原爆展を終えて この度呉で原爆展を開催することについて初めは少々戸惑いを感じておりましたが、原爆展を成功させる広島の会の方々の全面的なご支援ご援助を頂いて立ち上げることができ大変喜んでおります。またたくさんの方々の賛同も頂き、五日間の開催期間中多くのボランティアの人達のご協力を得ることができ、連日途切れることなく約二千四百人を超える入場者で大成功であったことは何よりもうれしいことでした。 呉原爆被爆者友の会会長 多数の参観者に驚きと喜び 来年戦後六〇周年を迎える前に、呉原爆展を開催できたことは非常に意義深いものがあります。 呉市傷痍軍人会会長 反響を呼んだ被爆学生服 二月一八日(水)から二月二二日(日)までの五日間「呉原爆展」が、そごう呉店七階イベントプラザで開催され、予想以上の二千四百人の参観者が会場に詰めかけ、成功をおさめて閉会した。イラクに派遣された自衛隊の装備を輸送する「おおすみ」が呉港から出発したなかでの原爆展であったためではないかと思われる。 大野町在住被爆者 呉原爆展を手伝って 二月一六日呉そごう七階で、原爆展設営の準備のために行きましたところ、呉の賛同者の方達男女が大勢集まっていらして、その熱意にまず圧倒されました。広島にはない活気を感じました。 広島市南区旭在住 呉原爆展アンケートから 果たしてアメリカは原爆投下が必要だったのか。このような惨い結果を知っていてアメリカは原爆を投下した。以来数十年を経たが、いまだにアメリカは謝罪しない。私は反米主義者ではないが、少なくともおくれたが日本国民、いな全世界の人類に謝罪すべきではないか。でなければ死者は浮かばれない。 (呉市焼山東、八二歳、男性) わたしの父は旧福屋の三階で被爆しその中でたった一人生きて明くる日は呉へ帰ってきました。途中相生橋を通って比治山へ出て海田から帰りました。当時私は一三歳、母はすでに死亡していました。途中中学生が連れて帰ってと云ってすがるのをふり捨ててやっと帰ったのを泣いて云っていました。我が子と重ねて悲しかったと思います。八月一五日にオイワのような顔になり腹が下り死にました。もう身内の中に私一人だけが知っているだけになりました。悲しい悲しい思い出です。早くから原爆がぜったいにあってはならない事を詩に書かれ尊敬します。 殺したのは米国、殺されたのは日本国民。広島へ落としなぜ長崎まで落としたのか日本は今回の米国の戦争に協力している歴史の恐ろしさを感じる。 (呉市東中央、七〇歳、男性) 正直いってこわかったです。そして心底腹がたちました。アメリカは、いつもやることだけやって、いい方は悪いけど、後始末はしていかないんだな。この展示で知らなかったことが多くてショックでした。小学生の時にも、峠三吉のことはやったけど、あんまり詳しいことまでしなかったのです。ここで色々なものを見ることができてよかったです。 (一八歳、女子高生) 今日呉原爆展に行っておばあさんが食べ物は食べず、お母さんたちはおなかをすかせながらもせいいっぱい仕事して、私はそれを聞いたとき親はとても子どもを大切に思っていて、戦争とかするのは一番大切なかぞくをうしなうことであって、戦争している側も親がみたらかなしむだろうと心の中でそう思いました。 (本通小学校、一一歳、女子) ぼくは、展示を見て石がとけるくらいあつかったと聞いたんだけど、石がとけるくらいあつかったら人の体はとてもあつかったんだと思う。原爆の絵を見てあらためて戦争はやってはいけないことだと思いました。昔はたくさん食べれなかったそうだけど、今は平和に食べれるようになったから好ききらいせず食べようと思いました。 (本通小学校、一一歳、男子) ばくだん一つで悪くない人がひ害にあっていてケロイドやガラスがささったあとがすごくかわいそうでした。それで佐々木さんという人は、原爆で指がへんになって手じゅつをして横ばらの皮をとってやってもなおらなくて、何もしていないのに一生のけがを負ってかわいそうでした。だから、そういうことがないようにしたいと思いました。 (本通小学校、一一歳、女子) 呉市横路小学校で原爆展パネル展示 呉原爆展の成功が大きな反響をよぶなか、呉原爆展に参加した教師の働きかけで、三月四日と五日、呉市横路小学校六年生の保護者会と授業参観で「原爆と峠三吉の詩」パネルが教室に展示されました。パネルを見た六年生一三〇人と保護者が広島の会にその感想を寄せてくれています。そのうちのいくつかを紹介します。
(女子) ほとんどの写真とかが、悲しくなるようなヒドイ写真でした。その中でも私が一番心に残ったのが、「水を! 水を!」という写真で、「弟」という題名のものでした。自分は悪くないのに、「あの時僕が、水をくんでやればよかった」という言葉がすごく、見ている方も悲しくなってきました。その人も一生忘れられないんだなあと思いました。でも、いろいろな写真も見て、そんな苦しみも忘れてはいけないんだ!!と思いました。他にも、原ばくによってかみがぬけて、大きくなっても「ハゲ」などとからかわれ、それでも「泣かなかった」という文もすごい!!と思いました。本当に私もあんな原ばくの写真を見て、すごく悲しくなって、心もいたくなったけど、でもたくさんの事が学べたなあと思いました。私も今日学んだことなど、一生忘れず、もう心から、あんな悲しい戦争はおこしたくない!!と思いました。 (女子) 私が一番心に残ったパネルがありました。それは、「原爆は戦争終結のためには必要なかった」というパネルです。それを見て、なら原爆をおとさなくてもよかったんじゃないかと思いました。それに、そのひ害を受けた人は、アメリカの人がちりょうもせずに、しんさつだけして原爆のいりょくとかを調べるだけです。原爆をおとさなければ、たくさんの人の命も救われて、こうい症にも苦しまなかったのにという気持ちでいっぱいです。あのパネルを見て、読んでとても悲しかったです。だって、戦争したってたくさんの人が死んだだけで何もいいことはないからです。もう絶対に、戦争をすることのない世界を作りたいです。もしも、日本が戦争をするというと、「反対!」をもって内閣へおしこみへ行くほど反対します。でも、日本は戦争をしないといっているので、そのことを絶対に守ってほしいです。 (女子) ぼくはあのパネルをみて思ったことがあります。はだしのゲンのマンガでみたのとは全ぜんちがいました。口にはいえないほどひどく、戦争なんてしないほうがいい、その気持ちがいっそう強くなりました。ぼくたちはこの時代に生まれてきてしあわせだなあとかんじました。ぼくは、おじいちゃんがさけをのんだらいつも話してくれました。それは、じいちゃんがもっているかなしいかこが、さけをのむとばくはつしてしまうんだなと思いました。 (男子) 「ピカドンが落ちたと」。私は小学三年生でした。北部の田舎で朝講堂の掃除をしていた時でした。山の上にもくもくと煙が出ていて、ただそれだけしか知らなかった。こんなむごたらしいことになっていたとは今でも信じられない。「ピカドン」。くやしい思いがします。田舎は夏休みが少なく、秋に農業を手伝うので、その日は学校でした。のちには、車で死体が続々と毎日毎日運ばれてきました。悲しい思い出です。六七歳の老女の辛い思いでです。 今、日本は戦争にたいして、自衛隊を呉基地から派遣したりしていますが、今一度、広島に原爆が落ちた国として、戦争について、もうすこし考えていかなくてはいけないと思った。子どもたちをまた、このような目にあわしてはいけないと思いました。 とても衝撃的な写真。被爆された方の写真をこんな身近で見たのは三〇年ぶりのような・・・。初めて見た時の胸をしめつけられる様な感覚をまた感じました。三〇年前はもしも自分が・・・とおきかえて考えていた事が、今はやはり、我が子に決してこんな思いをさせたくないと、強く思いました。 今の世の中、殺人とか虐待とか、命を大切にしない事件が多いのですが、このような原爆の悲惨さを見て、やはり命は大切なものだと痛感します。生きたくても生きられない人がたくさんいたことを、子どもが知り、自分たちは命を大切にしていかなければならないという思いを強く持ってほしい。そして、被爆した日本で生まれ育った人間として、世界にその悲惨さを伝えていかなければと思う。 今日は参観日に来て写真展を見せて頂きました。一番強く思ったことは、「かなしい」という思いです。人の生命を政治とかに利用する国のトップの人々は、自分の命は大切にするのに他人の生命をかるく見ていると思います。でもどんな事があってもたくましく生きている人々がいます。私だったらどうでしょうか・・・。この事を伝えていくこと、そして「知る」という事が大切だと思う。子どもたちもたくさん「知って」色々な事を考えてほしいです。 (三八歳、女性) 広大医学部「霞祭」で原爆展 昨年一一月一五、一六日の両日、広島市南区霞町にある広島大学医学部で催された大学祭・「霞祭」で「原爆と峠三吉の詩」原爆展を開催しました。この原爆展は、広島大学医学部同窓会や同窓会館の協力をえて「広仁会館」ロビーでおこなわれ、学内外の学生や地域の被爆市民、親子連れなどが参観しました。会場受付などに、広島の会の会員を中心にのべ二〇人以上のご協力をいただきました。 アンケートから ▼何回見ても悲しさが伝わり現在の若者に見てほしい。そしてアメリカにたいしての恨みが続きます。罪のない子どもにまでピカドンを使ったことに腹が立ちます。その時の状態がそのまま記してあり、歳をとるほどにその時の記憶をあらためて感動します。 (南区段原町、八〇歳婦人) ▼現代は飽食の時代といわれ、物質的にほんとうに豊かな暮らしを送っていると思います。五八年前の戦争当時は、決して豊かではなかったと思いますが、家族愛、人間同士のつながりのあたたかさは、いまよりもずっとあるなと感じました。悲惨な戦争のなかで愛する人たちを引き裂かれていく思いを考えると、ほんとうに切なくなりました。戦争という行為によって今後このようなことがあってはならないと思いました。 (二四歳女子学生) ▼原爆を落としたことに対して「日本の帝国主義にたいする当然の報いだ」とか「原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった」という原爆を正当化するような考え方があるが、やはり間違っているという認識を再確認できた。原爆を落としたのは日本にたいする占領体制をソ連に先立って確実にするだけのものであり、それ以上の理由はあり得ないと思う。戦後の占領下でいいたいこともいえない抑圧された環境のなかで、不屈の精神をもち原爆の惨劇を伝えつづけたことは、すごいと思う。人々に大きな希望を与えたことはとてもすばらしいと思う。 (広大医学部、二一歳男子学生) ▼原子爆弾、戦争の恐ろしさを改めて知った。原爆の被害者は市民だということが許せないと思った。米国は、治療をせず診療だけを行い、データを得ていたということに怒りを感じる。市民の詩集を残し、後に伝えることは必要。すばらしいと思う。 ページ先頭へ 前へ 次へ 末尾のページ |
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