「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会

会報「平和の絆」2号より


廿日市と呉の原爆展


平和の絆


平和のために語り継ぐ熱意あふれ

―痛苦の体験を語る被爆者、戦争体験者―

廿日市、呉で原爆展が大成功


原爆展に思う

平和運動の発展に明け暮れる毎日ですが、二〇〇四年も、節分が過ぎて、桜の開花も近くなりましたが、会員の皆様には、益々御健勝のことと、お喜び申し上げます。
平素はこの会の運営に御支援と御協力をいただき、この場をかりて厚く御礼申し上げます。
平和運動の糸口となる原爆展は、昨年一一月一五日と一六日に広島大学医学部同窓会館で開催し、今年の一月六日から一二日まで廿日市市美術ギャラリーで開催して八〇〇人の参観があり盛況でした。特に申し上げたいのは、二月一八日から二二日までの五日間、そごう呉店七階イベントプラザで開催した呉原爆展が二四〇〇人という、予期しない、めざましい参観者で大盛況に終わりました。
  呉原爆被爆者友の会の皆様と傷痍軍人会の方々、自治会の皆様、校長会の方々の絶大なる御支援と御協力で大成功であったことに感謝するとともに、連日にわたって奮闘されたスタッフの方々に敬意を表します。
  軍事基地呉の面目を一新することができたことを大変うれしく思っております。お手伝いをしていただいた方々に厚く御礼申し上げます。
  原爆展のキャラバン隊も、京都、大阪、岡山、熊本、長崎と日本列島を東西にかけめぐり、平和運動で日本列島をぬりつぶす状況となりました。私も今この状況をバネと踏み台として、ねばり強く、ますます平和運動に邁進したいと、身のひきしまる思いでいっぱいです。
  今後とも、会員の皆様の御支援と御協力をお願い致します。

原爆展を成功させる広島の会
代表世話人 重力敬三



廿日市市民原爆展

被爆関係者が多数訪れ体験を語る

  

一月六日から一二日まで、はつかいち美術ギャラリーで開催した「原爆詩人 峠三吉没五〇周年記念 廿日市市民原爆展」には、実質六日間で、被爆者、戦争体験者から小学生まで各年齢層八〇〇人が参観し、大きな成功をおさめることができました。アンケートは一九六枚が回収されました。この原爆展は、被爆者をはじめ、医師会、町内会、老人クラブ、元女性会役員、公民館、お寺、商店会、学校関係者など、廿日市市と周辺市町の多くの方々の支援、協力をえてとりくまれました。

自衛隊のイラク派遣やアメリカでのエノラゲイの展示といった状況のなかで開かれた今回の原爆展では、パネルや峠三吉の詩をつうじて、原爆や戦争の悲惨さがあらためて思い起こされ、被爆体験や戦争体験の風化をいましめ、「二度とこのような惨禍を繰り返してはならない」という声が強く聞かれたことが特徴的でした。多くの被爆者や関係者が、被爆の体験や原爆で親や兄弟、学友をなくした言い尽くせぬ思いを語っていかれました。戦争を知らない若い親世代も、平和な世の中を子どもたちに残すことを親の責任として、子どもと一緒に積極的に参加する姿が目立ちました。金剛寺小学校からは六年生がクラス全員で参観して被爆体験を真剣に聞いて帰り、多数のアンケートを寄せてくれました。

峠三吉の詩と、平和を訴えるその姿勢に強い共感と尊敬の念が語られ、「じっくりと詩を読んでみたい」「多くの人に広げる必要がある」という意見も多数寄せられました。峠三吉にゆかりの人や「原子雲の下より」の関係者が会場を訪れたり、原爆展を通じて五八年ぶりの新たな出会いや発見が実現したことなども印象的でした。

戦争をふせぎ、平和の力を大きくしていくうえで、こうした地域的な原爆展を数多く積み重ねていくことが大事であることが、あらためて確認されました。

今回の廿日市原爆展は、学校、地域に被爆体験継承の運動を広げていく端緒を開くという大きな成果を残しました。二月二九日に開かれた相談会では、今後、公民館や地域などで巡回原爆展をおこない、学校でも原爆展パネルを活用してもらうよう働きかけることが積極的に論議されました。「平和な未来のために子どもたちに語り継ぐ」運動のいっそうの発展が期待されています。

二回目の原爆展を終えて

寒さのきびしい一月の初め、廿日市市美術ギャラリーにて二回目の原爆展が開かれた。八百余名の人達にご来場を頂き大成功を収めることができたことを一応はうれしく思っている一人ではある。しかし考えてみるとまだまだ多くの人々にお越し頂いてせめて千人という数字にならなかったものかと、しみじみと思っているこの頃です。直接被爆されている人でも、もう二度とあのような悲惨な写真など見たくもない。どうしても見る気にはなれないと、ひどい口調でいわれる人も少なくないという現状があるけれども、このような思いは、とても悲しいことに思われてならない。
  あれほど悲惨な事柄、これほど残酷な大きな出来事であるからこそ何度も見て頂いてほしいと願うばかりです。そして一人でも多くの人達に、そのままの様子を伝えてもらいたい。特に少年や青年達、とにかく若い者にくわしく話して頂きたいと強く願うのは私一人だけではないと思います。世界的にもまた歴史上からいっても、これ以上の悲しい出来事はないとまで言い切れると信じているあの原爆が知らず知らずの間にいつのまにか消えて無くなってしまうとかいうようなことが絶対おこらないようにと切に切に念ずる私です。 あの展示会の折、金剛寺小学校よりたくさんな生徒が先生に引率され校長先生もご一緒にご来場下さったことは、あの時何よりのうれしいことでした。そして、真剣に耳を傾けて話を聞いてくださったあのまなざしに感激しました。深い感銘を受けてくださったことがはっきりその表情にあらわれているのを感じました。今後益々、一人でも多くの人々に強い関心を持って頂き、この運動にご賛同を頂いてその輪がさらにさらに大きく広がってゆくことを願いつつペンをおきます。

元廿日市市女性連合会会長
中津節子

 

小学生に体験を語って

平成一六年一月六日から廿日市市美術ギャラリーで開催された原爆展に、廿日市市立金剛寺小学校の六年生が校長先生と担任の先生と見学に来られました。
  最初は興味本位で「ワァーこの写真むごいよ、早く見て」などと大声で話しながら見ていましたが、しだいに真剣に私達の説明を静かに聞いてくれて、表情もこわばらせてきました。グループでの話し合いの時、私が当時小学校六年生で、自分たちと同じ年の生徒が講堂において被爆者看護のお手伝いをしたことを話し始めると真剣に聞いてくれました。
  お母さんの火傷の治療中は赤ちゃんや子ども達のおもりをしたこと、赤ちゃんの治療の時は抱っこしてあげていたこと、弱っている赤ちゃんは私に抱かれていても動かなかったこと、そんな赤ちゃん達もその後、何人か死亡したこと、死んだ赤ちゃんをそのお母さんが泣いて離さなかったことをくわしく話しました。つづいて、四、五日後、火傷にわいたウジ虫を看護婦さんがピンセットでつまみ、古新聞をひろげて持っている私が受け取り、新聞紙の下からそれを指でつまんで殺す、この作業を何日かしたこと、気持ち悪いけど一生懸命にしたこと、大人も毎日何人も死亡者が出始めて、死んだ人は学校の向かいの小高い山で火葬をしていたことなどを分かりやすく話しました。
  どの子も話の終わりの頃は、質問の言葉も無く、黙ってしまい、女子は涙ぐんでいました。今日を契機にこの子達が今後の戦争の無い世界平和のために、私達の体験談や原爆展のことを語りついでほしいと強く感じました。

廿日市市宮内四丁目
田川昭代

原爆展に参加して
  私には言葉がいらなかった 

  展示会場に私どものためにコーナーを作っていただき感謝したします。
  中学一年生のときに原爆で亡くなった兄の一つだけの遺品であるカバンと教科書を展示できるようにしていただき、その上に、今もなお息子を思い、九七歳になる母の手で折り続けている鶴に、糸通しができなくなったことよりお願いしました千羽鶴作成コーナーを作っていただいた事だけで十分兄の供養ができたと思っております。
  コーナー担当として展示会に参加し、会場にお出でになる大勢の方々が、このコーナーに足を止められ、メモを読み、手をさしのべて折り鶴に糸を通してくださる姿に感銘しました。
  折り鶴への糸通しでは、子どもたちがなれない手つきで、指先に針が刺さりながらも、真剣な顔、目で、一羽一羽平和の鶴になるように糸通しをしてくださいました。
メモである子どもへの伝言を読まれ、カバン・教科書を見て、さわっていた中一の名札をつけた女の子の姿が目につきました。声をかけようかと後ろにたっていた私は、声をかけることもできず、見送るだけでした。
  展示会にお出でになる子どものなかには、涙を流す子もおられました。その子どもさんが母親と一緒に二度目の来場をされたときに、メモである子どもへの伝言のコピーを求められました。
  学習後、先生とともに自分で折った鶴を、届けにこられた子どもたち。

  このような子どもたち、廿日市市の方々、来場してくださった方々と接したことにより、真の優しさをいただきました。亡くなった兄も見ていたことでしょう。高齢の母もとても嬉しく受けとめております。このような体験をさせていただいた中で感じたことは、言葉がいりませんというか、いらないのです。一人一人が目で見て、身体で感じてくださっていることが心に伝わってきました。
  これからは、広島の会の方々とともに、私が歩ける足がある限り、戦争のない平和を望む一人として歩み続けたいと思っております。
  ありがとうございました。

石津ユキエ

金剛寺小学校六年の先生のお礼の手紙と生徒の感想文より

  「 先日、さくらぴあでの廿日市市民原爆展では、たいへんお世話になり、ありがとうございました。子ども達も、今の子ども達なりにそれぞれ精いっぱい受けとめ考えていたようです。感想を一部送ります。遅くなり申しわけありません。つたない文章ではありますが、どうぞ読んでください。

  お話をしてくださいました方々にも、くれぐれもよろしくお伝えくださいませ。

  私も、子ども達のためにも、戦争のない核兵器のない平和な世の中にしなければ、という思いをこめながら、日々子ども達と接していこうとさらに強く思いました。本当にありがとうございました。」

 

▼改めて、戦争はだめだと思いました。私は最初に戦争の時の体験の話を聞かせてもらいました。それは原ばくが落とされた日、学校へ行った中一の子が亡くなってしまったという話でした。その子のお母さんは、「あの時学校に行かせなければよかった」と言っているそうです。この事を聞いて、戦争は悲しくて罪もない人達まで殺して、二度とこんな事はしてはいけないと思いました。話を聞いて写真を見ました。どれも見るのがつらかったです。けど、これからいろんな人に伝えるにはちゃんと見て伝えないといけないので、つらくてもちゃんと見ました。ちょっとの間でもたくさんの人が亡くなったと聞いてびっくりしました。他にも原ばくで負ったやけど、今でも残っている原ばくしょうの被害など、いろいろな写真を見ました。アメリカは原ばくを落としてよかったと言うけど、私はそうは思いません。もっと別の方法を考えて、戦争をやめればよかったと思いました。また、このような事をくりかえさないためにいろんな人に伝えていきたいです。

(金剛寺小六年、女子)

▼展示を見て、自分と同じぐらいの人まで原爆にあって、やけどをおってしまって、そのやけどからうじ虫がわいて、それを新聞につつんでプチプチつぶしていたと聞いたとき気持ちがゾッとしました。原爆の展示されている物すべてが悲惨な物ばかりで少し気持ちがよくありませんでした。原爆の名前がいかにもいいようにつけられていたので、なんであんな名前にしたのか不思議におもいました。戦争というものがこの世からきえるように願っていきたいです。

(金剛寺小六年、男子)

廿日市原爆展アンケートから

▼原爆写真はいつみても心がつぶれる思いがします。戦争をして誰が犠牲になるのか、関係のない一般市民が苦しむだけです。許せません!トップの人は痛くもかゆくもない。今、イラクへの派兵が取りざたされているが、絶対に行くべきではない!! 有名な父をかえせ・・・以外にこんなにもたくさんの詩で率直に訴えているのにあらためて感じました。

(無記名)

▼写真や展示の説明にも原爆の悲惨さがよくあらわされていましたが、峠三吉の詩にとても心をうたれました。原爆で亡くなったのは軍人でも政治家でもなく、ごく普通の生活を送っていた人人だったこと、あらためて思い知らされました。峠三吉の「怒り」がストレートに心にひびいてきました。

(無記名)

 ▼私も六才頃に原爆にあい、母と一緒に逃げました。でも私は、おかげさまで無傷でこれまで生かしてもらいました。あの時に亡くなった人達の為にも頑張って核兵器の使用反対を叫びたい。アメリカという国は戦争にいつも首をつっこみ懲りない国だと思う。全世界にこういった展示をする必要があります。

(六四歳、女性) 

▼最後の日にやっと見に来ることができました。戦後五九年といいながら、戦前になろうとしているいまのこの時代、戦争反対、核兵器廃絶を! プレスコードの下、峠三吉が命をかけて訴えようとした中身の大きさに驚く。視点のするどさはさすが、というしかない。米国の原爆投下の真実を見ぬいている。

(五三歳、男性公務員)

 ▼峠三吉さんのことが詳しくわかり、いまの時代(戦争に加担しようとする動き)に、もう一度考えなければならない、タイムリーな展示だったと思います。原爆のことについては、暗く、目をおおいたくなる絵や写真が多いので、気がすすまないが、これが現実だということを子どもたちに伝えていくのが大人の役目だとあらためて思いました。あの当時、反戦を訴えられていたことに心をうたれます。

(五一歳、女性教員)

 ▼見ているだけですごいつらくなった。もう二度とくり返してはいけないと思った。今、日本は自衛隊をイラクに派遣する事になったから戦争が始まるかもしれないのでこわくなった。原爆はもう絶対イヤだ。もっとたくさんの人、全国の人にこの展示会を見てもらいたいと思った。

(一五歳、女子)

 ▼最初見た時はこわくて見たくないと思ったけど、私のためにも、みんなのためにもがんばって見ました。原ばくのせいで人が死んだり、建物がこわれたり、原ばくを経験している人たちはすごくきずついて心も体もボロボロで、写真を見ただけでその時のじょうきょうなど頭の中にうかび、悲しくなりました。原ばくはぜったいだめです。得る物、それは、人の悲しみ、苦しみだけだと思います。もっと小さい人たちに伝えたいです。とうげさんがいなかったら、原ばく展もこれなかったし、原ばく者の苦しみ、悲しみは知れなかったと思います。私は原ばく展はとてもいいことだと思います。原ばくを知らない人に伝えれるからです。これからも続けてほしいです。        

(金剛寺小学校 六年生女子)



呉原爆展が大盛況のうちに閉幕

 盛り上がる語り継ぐ気運
一八日から二二日まで、そごう呉店七階イベントプラザで開催された呉原爆展は、二四〇〇人の参観者をえて大盛況のうちに終わりました。
 呉原爆展の賛同者には、呉の被爆者を先頭に戦争体験者、呉空襲の体験者、自治会長、商店街振興組合理事長、商店主、老人会長、民生委員、保護司、寺住職、医師会、幼稚園園長、保育園園長、障害者、女性会、福祉関係者、教師、主婦など幅広く各界から一七七人の方が名前を連ねました。よせられたアンケートは六二九枚にのぼりました。
 自衛隊がイラクに派遣されるなかで、軍港の街・呉で開かれた今回の原爆展には、初日から多くの被爆者、戦争体験者がぞくぞくと会場をおとずれ、被爆体験や家族、親族、友人を失ったつらい経験、戦争や原爆の悲惨さと、戦争に反対し平和を求める痛切な思いを、堰を切ったように語っていきました。
 また、吾妻小学校六年生、本通小学校五年生、二河小学校六年生の児童と西方寺幼稚園の園児が集団で参観し、被爆者の説明や体験を真剣なまなざしで学んでいきました。
親子連れや孫を連れた祖父母の参観、三、四人でまとまって参観した子どもたちの姿も
めだちました。これらの子どもたちや親子連れの参観者にたいして、これまで体験を話す場がなかった被爆者が、熱心にパネルの説明をおこない、体験を語りました。その数は五日間をとおして五〇人を超えました。それはかつてないことであり、被爆体験を語り継ぐ運動が呉でも始まったことを実感させるものでした。また、呉原爆被爆者友の会の婦人役員を中心に、連日多数の被爆者が受付や案内、体験を語る先頭に立ち、その熱意は多くの参観者の胸をうつものでした。
 子どもたちの真剣な態度は被爆者の感動を呼び、被爆体験を語り継ぐ意欲と決意をさらに強いものにしています。原爆展終了後も、「パネルを見せたい」「子どもたちに聞かせたい」「毎年続けてほしい」という声がだされ、パネルを使った被爆体験継承の運動が継続して発展しようとしています。
 このたびの原爆展は、峠三吉の詩と業績を広範の市民のなかに広げるうえでも、大きく寄与することができました。多くの参観者が、被爆地広島の真実を歌った峠三吉の詩にふれて深い感動と尊敬の念をあらわし、多くの人に広げる必要があると語っています。
 原爆展全体をとおして、被爆者をはじめとする呉市民のなかに、巨大な平和の力がうずまいていることがあきらかとなりました。そのことは、今後の平和運動の発展にとって大きな意義をもつものと確信します。

呉原爆展を終えて

 この度呉で原爆展を開催することについて初めは少々戸惑いを感じておりましたが、原爆展を成功させる広島の会の方々の全面的なご支援ご援助を頂いて立ち上げることができ大変喜んでおります。またたくさんの方々の賛同も頂き、五日間の開催期間中多くのボランティアの人達のご協力を得ることができ、連日途切れることなく約二千四百人を超える入場者で大成功であったことは何よりもうれしいことでした。
  今世界は大きく揺らいでおります。北朝鮮の核疑惑、イラク戦争、自衛隊のイラク派遣、世界のテロ活動等々、の時期で「平和」にたいする考えを問う好機ではなかったかと思います。開催中三つの小学校の児童、一つの幼稚園の園児と保護者の方々の参観を得、呉市内の小・中学校全生徒にビラを配布して頂き、子ども達の平和学習の一翼を担えたことは大きな成果であったことと考えます。戦争を知らない、平和を満喫している人達にこそこの原爆展を通して「核」の恐ろしさを認識してもらい、二度とこのような悲惨な戦争を繰り返してはならないと理解してもらえたことは大成功だったと思います。幼い園児がパネルを見、話を聞きながら「怖いばくだん」「かわいそう」と何度も後ずさりしながら涙を浮かべていたことに語る側が感動するほどでした。
  私も被爆後五十余年体験を語りたくない心境でしたが、自分が直爆したあの生き地獄の中を鮮血に染まりながらも何とか脱出したことの体験は語り継がなければならない使命があると痛感しました。五八年前のあの光景が今でも思い出されてやるせない憤りで胸が締めつけられる思いでいっぱいです。あの日(八月六日)天満町電停北一・二キロの軍需工場で被爆し、あの暗黒の中からはいでると倒壊した工場の大きな梁の下敷きになった動員女子学徒の「助けてー!!」という悲痛な叫び声が今でも耳に残って離れません。
  今被爆者は高齢化がすすんでおります。今からもどんどん年老い、病気になり、ひとりぼっちになり死んでいく人が増え、次第に被爆体験者が減少し、被爆の実相も伝え語り続けることがむずかしくなります。しかし、私達はしっかりと世の動きを見つめ、被爆した者にしか果たせない役割があるはずです。核兵器の廃絶をめざし、平和な世の中を築き上げるべく努力を続けていき、平和運動の推進に努力していく使命があるものと考えます。
  終わりに、このたびの呉原爆展を支えてくださった多くの方々に深く感謝申し上げますとともに厚くお礼を申し上げます。

呉原爆被爆者友の会会長
植田雅軌

多数の参観者に驚きと喜び

   来年戦後六〇周年を迎える前に、呉原爆展を開催できたことは非常に意義深いものがあります。
  呉市には海上自衛隊呉地方総監部がおかれ、練習艦、護衛艦、潜水艦その他の艦艇がそろい、隊員五五〇〇人が住み、年間四〇〇億円以上の金を落とすといわれ、共存共栄の街となっています。
  呉海上自衛隊からは近年、湾岸戦争、カンボジア、アフガニスタン、イラク等への支援出動等があり、平和がつづいた日本の雲行きも怪しくなって来つつある予感がいたします。
  こういった時期に開催された呉原爆展は、核兵器廃絶宣言都市呉の市民に枕許(まくらもと)で目覚まし時計を鳴らしたことになるのではと思いました。
  一九九五年(平成七年六月)呉市役所ロビーで第一回呉原爆展を開催いたしましたが、呉市は日本で第三番目に被爆者の多い街であり、呉原爆被爆者友の会を結成、被爆者同士の助け合い、医療、生活、その他の問題解決の運動をおこなうとして活躍しています。しかしながら昨今、ふところ温(ぬ)くけりゃ惰眠(だみん)を貪るのたとえではないですが目覚めが悪い。そんなこんなで原爆展を成功させる広島の会とのご縁により呉原爆展を計画し、主催者を原爆展を成功させる広島の会、呉原爆被爆者友の会、共催呉市傷痍軍人会に決定、三者の精力的宣伝活動と役所、自治会、学校、諸団体、個人賛同者等のご支援、ご協力を得て開催することができました。
  開催日定刻テープは切られ、待ちかまえていた参観者がなだれ込み驚きと喜びに包まれました。さあ戦場と化した会場で、参観者へのパネルの説明役に呉原友会会員がつぎつぎにみずから語りべとなり、本通小学校、吾妻小学校、二河小学校生に西方寺幼稚園児等、市民の皆様方が五日間にわたり二四〇〇名参観され、想像を越えた実績となり驚きや喜びとなりました。
  呉原友会会員の方々は原爆展を契機に自信がつき、次の世代に語りつぐ覚悟を新たにされたことと思います。最後に、原爆展を成功させる広島の会の方々のご協力により原爆展が成功裏に終わったことに感謝したいと思います。

呉市傷痍軍人会会長
佐々木忠孝

反響を呼んだ被爆学生服

   二月一八日(水)から二月二二日(日)までの五日間「呉原爆展」が、そごう呉店七階イベントプラザで開催され、予想以上の二千四百人の参観者が会場に詰めかけ、成功をおさめて閉会した。イラクに派遣された自衛隊の装備を輸送する「おおすみ」が呉港から出発したなかでの原爆展であったためではないかと思われる。
  私は、中学の先輩が被爆した時に着ていた学生服を借りて展示させてもらった。思った以上の反響があった。とくに小・中学生は関心があったようで、陳列ケースを食い入るように見ながら「服が小さい(服は人絹とスフで作られているので縮んで少しは小さくなっている)ね」「黒くなっているのは血ですか」、なかには「これは作ったものですか」など質問をしていた。展示させてもらってよかった。
  学生服の提供者の山根省二郎さんは、被爆したときは、旧制崇徳中学の二年生で、私達一年生と八月三日頃から学徒動員で建物疎開の後片づけ作業に早朝から従事していた。山根さんは作業中に踏抜(足に釘がささる)をし傷が化膿したので、作業を休んで病院に治療のため爆心地から北東一・三キロ、市電白島線の終点付近を常磐橋の方へ歩いていて被爆、顔、帽子から下の後頭部、右手首から指にかけてヤケド、とくに手はケロイドがひどく残っており顔は一皮剥げたそうです。現在もご健在です。
  後日、展示写真を持参しお返しとお礼にうかがい非常に役に立ったことをお話しすると、お役に立てて良かったと喜んでおられました。
  原爆展では、いろいろの出会いがあります。廿日市市民原爆展でのこと、参観の方が私の兄は崇徳中学の二年生で建物疎開の作業にいっていて被爆し行方不明でしたと話しておられるのを聞かれた方が私の話をすると、会って話が聞きたいと翌日会いに来られました。会って被爆した時のお話をすると、今まで何もわからなかったが少しでも兄のことを知ることができたと感激して帰られ、兄さんに話されたようでまた翌日兄さんを連れてお見えになりお話しましたが、原爆の悲惨を感じました。これも原爆展での一つの出会いだと思いました。被爆死された「三浦茂男さん」のお兄さんと弟さんでした。
  どこの原爆展でも、今まで原爆のことを語ろうとしなかった被爆者が、二度と原爆の悲劇を繰り返してはならない、そのためにも被爆体験を語り継がなければならないと、多くの人が語り始めています。また、被爆関係資料を提供する人もおられます。今後も原爆展は継続していかなければならないと思う。

大野町在住被爆者
竹村伸生

呉原爆展を手伝って

  二月一六日呉そごう七階で、原爆展設営の準備のために行きましたところ、呉の賛同者の方達男女が大勢集まっていらして、その熱意にまず圧倒されました。広島にはない活気を感じました。
 一八日の開会日には幼稚園児、小学生・中学生、親子連れなど、各層からたくさんの人が見に来られ、熱心にパネルを見てまわり被爆者に真剣に話を聞いておられるのが印象的でした。
 そして語りべの高橋栄子さんが「峠三吉という人はどういう人かと子どもがたずねている」とのことで、そこのグループのところへいき、「広島の人で自分が原爆にあった悲惨さや、むごさ、何の罪のない人が何十万と原爆によって焼き殺されたことの無念など、原爆や戦争は絶対に許されないことを後世に書き残しておくために、戦後詩人として生きてこられた人だ」といって、詩を朗読してあげましたら、その中の一人の子どもが涙をためて聞いていました。
 子どもは純真な心を持っているのでその心に届くように、これからも詩やパネルを通じて、子どもたちに原爆や戦争は絶対にいけないということを教えていかなければと思いました。
 そして呉被爆者の会の方やその他の会の方達が、男女を問わず毎日のように大げさにいえば祭りに参加するように入れ替わり立ち替わり、受付、案内、語りべとして活躍なさっている姿には頭が下がりました。そして被爆者会の会長さんの御家族ぐるみでの冊子購入のご協力、そして佐々木さんの被爆のむごさにもめげぬ立派な生きざまには頭が下がります。あの時点で死体になってもおかしくない程の火傷を負われていたのに、毎日カメラですごく良い写真を撮ってくださり、たくさん皆に無償でお配りくださったこと、とても恐縮感謝致しております。
 今まで無関心でいたことを改めて恥ずかしく思いました。
 危機感あふれる世界情勢の中にあって、日本の表面上の平和ボケから目覚めて、真剣に時世をみつめて次の世代へ平和な日本を残していくよう、戦中、戦後を生きてきた者達の責任として、命のある限り頑張っていきたいと思います。呉の方達にたくさんのパワーを頂いた原爆展でした。ありがとうございました。

広島市南区旭在住
大下ユキミ

呉原爆展アンケートから

 果たしてアメリカは原爆投下が必要だったのか。このような惨い結果を知っていてアメリカは原爆を投下した。以来数十年を経たが、いまだにアメリカは謝罪しない。私は反米主義者ではないが、少なくともおくれたが日本国民、いな全世界の人類に謝罪すべきではないか。でなければ死者は浮かばれない。

(呉市焼山東、八二歳、男性)

 わたしの父は旧福屋の三階で被爆しその中でたった一人生きて明くる日は呉へ帰ってきました。途中相生橋を通って比治山へ出て海田から帰りました。当時私は一三歳、母はすでに死亡していました。途中中学生が連れて帰ってと云ってすがるのをふり捨ててやっと帰ったのを泣いて云っていました。我が子と重ねて悲しかったと思います。八月一五日にオイワのような顔になり腹が下り死にました。もう身内の中に私一人だけが知っているだけになりました。悲しい悲しい思い出です。早くから原爆がぜったいにあってはならない事を詩に書かれ尊敬します。

 殺したのは米国、殺されたのは日本国民。広島へ落としなぜ長崎まで落としたのか日本は今回の米国の戦争に協力している歴史の恐ろしさを感じる。

(呉市東中央、七〇歳、男性)

正直いってこわかったです。そして心底腹がたちました。アメリカは、いつもやることだけやって、いい方は悪いけど、後始末はしていかないんだな。この展示で知らなかったことが多くてショックでした。小学生の時にも、峠三吉のことはやったけど、あんまり詳しいことまでしなかったのです。ここで色々なものを見ることができてよかったです。

(一八歳、女子高生)

今日呉原爆展に行っておばあさんが食べ物は食べず、お母さんたちはおなかをすかせながらもせいいっぱい仕事して、私はそれを聞いたとき親はとても子どもを大切に思っていて、戦争とかするのは一番大切なかぞくをうしなうことであって、戦争している側も親がみたらかなしむだろうと心の中でそう思いました。

(本通小学校、一一歳、女子)

ぼくは、展示を見て石がとけるくらいあつかったと聞いたんだけど、石がとけるくらいあつかったら人の体はとてもあつかったんだと思う。原爆の絵を見てあらためて戦争はやってはいけないことだと思いました。昔はたくさん食べれなかったそうだけど、今は平和に食べれるようになったから好ききらいせず食べようと思いました。

(本通小学校、一一歳、男子)

ばくだん一つで悪くない人がひ害にあっていてケロイドやガラスがささったあとがすごくかわいそうでした。それで佐々木さんという人は、原爆で指がへんになって手じゅつをして横ばらの皮をとってやってもなおらなくて、何もしていないのに一生のけがを負ってかわいそうでした。だから、そういうことがないようにしたいと思いました。

(本通小学校、一一歳、女子)


 呉市横路小学校で原爆展パネル展示

呉原爆展の成功が大きな反響をよぶなか、呉原爆展に参加した教師の働きかけで、三月四日と五日、呉市横路小学校六年生の保護者会と授業参観で「原爆と峠三吉の詩」パネルが教室に展示されました。パネルを見た六年生一三〇人と保護者が広島の会にその感想を寄せてくれています。そのうちのいくつかを紹介します。


私は、戦争はつらくて一度に何万人もの人々が亡くなるような悲しいものと思っていました。けど、今回パネルを見て、戦争とはつらくて、悲しいだけのものではなく、残っている人達の心や体に大きなきずをつけ、場合には一生治らないときもあると知りました。これからは、ただつらいとか、悲しいとか簡単に言わず、本気で考えていこうと思います。

(女子)

ほとんどの写真とかが、悲しくなるようなヒドイ写真でした。その中でも私が一番心に残ったのが、「水を! 水を!」という写真で、「弟」という題名のものでした。自分は悪くないのに、「あの時僕が、水をくんでやればよかった」という言葉がすごく、見ている方も悲しくなってきました。その人も一生忘れられないんだなあと思いました。でも、いろいろな写真も見て、そんな苦しみも忘れてはいけないんだ!!と思いました。他にも、原ばくによってかみがぬけて、大きくなっても「ハゲ」などとからかわれ、それでも「泣かなかった」という文もすごい!!と思いました。本当に私もあんな原ばくの写真を見て、すごく悲しくなって、心もいたくなったけど、でもたくさんの事が学べたなあと思いました。私も今日学んだことなど、一生忘れず、もう心から、あんな悲しい戦争はおこしたくない!!と思いました。  

(女子)

私が一番心に残ったパネルがありました。それは、「原爆は戦争終結のためには必要なかった」というパネルです。それを見て、なら原爆をおとさなくてもよかったんじゃないかと思いました。それに、そのひ害を受けた人は、アメリカの人がちりょうもせずに、しんさつだけして原爆のいりょくとかを調べるだけです。原爆をおとさなければ、たくさんの人の命も救われて、こうい症にも苦しまなかったのにという気持ちでいっぱいです。あのパネルを見て、読んでとても悲しかったです。だって、戦争したってたくさんの人が死んだだけで何もいいことはないからです。もう絶対に、戦争をすることのない世界を作りたいです。もしも、日本が戦争をするというと、「反対!」をもって内閣へおしこみへ行くほど反対します。でも、日本は戦争をしないといっているので、そのことを絶対に守ってほしいです。

(女子)

ぼくはあのパネルをみて思ったことがあります。はだしのゲンのマンガでみたのとは全ぜんちがいました。口にはいえないほどひどく、戦争なんてしないほうがいい、その気持ちがいっそう強くなりました。ぼくたちはこの時代に生まれてきてしあわせだなあとかんじました。ぼくは、おじいちゃんがさけをのんだらいつも話してくれました。それは、じいちゃんがもっているかなしいかこが、さけをのむとばくはつしてしまうんだなと思いました。

(男子)

「ピカドンが落ちたと」。私は小学三年生でした。北部の田舎で朝講堂の掃除をしていた時でした。山の上にもくもくと煙が出ていて、ただそれだけしか知らなかった。こんなむごたらしいことになっていたとは今でも信じられない。「ピカドン」。くやしい思いがします。田舎は夏休みが少なく、秋に農業を手伝うので、その日は学校でした。のちには、車で死体が続々と毎日毎日運ばれてきました。悲しい思い出です。六七歳の老女の辛い思いでです。

今、日本は戦争にたいして、自衛隊を呉基地から派遣したりしていますが、今一度、広島に原爆が落ちた国として、戦争について、もうすこし考えていかなくてはいけないと思った。子どもたちをまた、このような目にあわしてはいけないと思いました。

とても衝撃的な写真。被爆された方の写真をこんな身近で見たのは三〇年ぶりのような・・・。初めて見た時の胸をしめつけられる様な感覚をまた感じました。三〇年前はもしも自分が・・・とおきかえて考えていた事が、今はやはり、我が子に決してこんな思いをさせたくないと、強く思いました。

今の世の中、殺人とか虐待とか、命を大切にしない事件が多いのですが、このような原爆の悲惨さを見て、やはり命は大切なものだと痛感します。生きたくても生きられない人がたくさんいたことを、子どもが知り、自分たちは命を大切にしていかなければならないという思いを強く持ってほしい。そして、被爆した日本で生まれ育った人間として、世界にその悲惨さを伝えていかなければと思う。

今日は参観日に来て写真展を見せて頂きました。一番強く思ったことは、「かなしい」という思いです。人の生命を政治とかに利用する国のトップの人々は、自分の命は大切にするのに他人の生命をかるく見ていると思います。でもどんな事があってもたくましく生きている人々がいます。私だったらどうでしょうか・・・。この事を伝えていくこと、そして「知る」という事が大切だと思う。子どもたちもたくさん「知って」色々な事を考えてほしいです。

(三八歳、女性)


広大医学部「霞祭」で原爆展

昨年一一月一五、一六日の両日、広島市南区霞町にある広島大学医学部で催された大学祭・「霞祭」で「原爆と峠三吉の詩」原爆展を開催しました。この原爆展は、広島大学医学部同窓会や同窓会館の協力をえて「広仁会館」ロビーでおこなわれ、学内外の学生や地域の被爆市民、親子連れなどが参観しました。会場受付などに、広島の会の会員を中心にのべ二〇人以上のご協力をいただきました。

アンケートから

▼何回見ても悲しさが伝わり現在の若者に見てほしい。そしてアメリカにたいしての恨みが続きます。罪のない子どもにまでピカドンを使ったことに腹が立ちます。その時の状態がそのまま記してあり、歳をとるほどにその時の記憶をあらためて感動します。

(南区段原町、八〇歳婦人)

▼現代は飽食の時代といわれ、物質的にほんとうに豊かな暮らしを送っていると思います。五八年前の戦争当時は、決して豊かではなかったと思いますが、家族愛、人間同士のつながりのあたたかさは、いまよりもずっとあるなと感じました。悲惨な戦争のなかで愛する人たちを引き裂かれていく思いを考えると、ほんとうに切なくなりました。戦争という行為によって今後このようなことがあってはならないと思いました。

(二四歳女子学生)

▼原爆を落としたことに対して「日本の帝国主義にたいする当然の報いだ」とか「原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった」という原爆を正当化するような考え方があるが、やはり間違っているという認識を再確認できた。原爆を落としたのは日本にたいする占領体制をソ連に先立って確実にするだけのものであり、それ以上の理由はあり得ないと思う。戦後の占領下でいいたいこともいえない抑圧された環境のなかで、不屈の精神をもち原爆の惨劇を伝えつづけたことは、すごいと思う。人々に大きな希望を与えたことはとてもすばらしいと思う。

(広大医学部、二一歳男子学生)

▼原子爆弾、戦争の恐ろしさを改めて知った。原爆の被害者は市民だということが許せないと思った。米国は、治療をせず診療だけを行い、データを得ていたということに怒りを感じる。市民の詩集を残し、後に伝えることは必要。すばらしいと思う。

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