白痴 川端茅舎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大旱《おほひでり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)夏|薊《あざみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「咤−宀」、第3水準1-14-85] ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ] 青淵(昭和十四年) [#ここで字下げ終わり] 大旱《おほひでり》天智天皇の「秋の田」も 炎天に青淵《せいえん》の風ふと立ちぬ 青淵の上に御田《おんた》の旱かな 青淵に翡翠《かはせみ》一点かくれなし 鮎の瀬を淵へ筏《いかだ》は出て卍 [#ここから2字下げ] 菜殻の火(同) [#ここで字下げ終わり] 鐘楼に上りて菜殻火《ながらび》を見るも 清浄《しやうじやう》と夕菜殻火も鐘の音も 菜殻火の襲へる観世音寺かな 菜殻火の映れる牛の慈眼かな 菜殻焼く火柱負ひぬ牛車 夏|薊《あざみ》礎石渦巻くおそろしき アセチレン瓦斯《ガス》の手入よ月見草 [#ここから2字下げ] つゆ(同) [#ここで字下げ終わり] 嘶《いなな》けば歯白き露の馬悲し 日に炎えて露に噎《むせ》びぬ猛り鵙 露燦と雀は鵙に身を挺し 螳螂の面上に唾はきかけし 露時雨螳螂尻をどかと据ゑ [#ここから2字下げ] 菊(同) [#ここで字下げ終わり] 有明の月下に菊の輝きし 菊日和シヤベルは砂利を掻鳴す 菊日和道に放射に環状に 銀翼の光飛び来ぬ菊日和 銀翼に鵯の谺や菊日和 [#ここから2字下げ] 落葉(同) [#ここで字下げ終わり] 風呂敷の一つぱい包みしは落葉 風呂敷の落葉ぎつしり幸福に 風呂敷に落葉包みて事足りぬ 風呂敷に落葉包みぬ母も娘も 鉦叩《かねたたき》落葉の底にきこゆなり [#ここから2字下げ] 月光採集(同) [#ここで字下げ終わり] 月は表に月光は机下に来ぬ よよよよと月の光は机下に来ぬ 月光は燈下の手くらがりに来し 手くらがり青きは月の光ゆゑ 身をほそめとぶ帰燕あり月の空 夕空の土星に秋刀魚焼く匂ひ うすきうすき有明月に鵙高音 東天の紅消え行きて鵙曇り 金環のほそくて月のつゆけくて ほそほそと月の慈眼のありあけて 白露や月の金環かく細り 月の輪の金色澄める露時雨 青芭蕉露盛上げて捧ぐ而已《のみ》 懐手して躓《つまづ》き老あはれ 純粋に木の葉ふる音空は瑠璃 朴落葉して洞然と御空かな 冬瓜を矢鱈《やたら》に重ね小屋は破れ 冬瓜の面目もなく重ねられ 月読のひかりのどけき大根かな 練馬野の月大胆に真つ白に 月の空澄みて大根の葉には靄 畑大根皆肩出して月浴びぬ 満月に金炎え立ちし銀杏かな 南蔵院月の円相杉隠れ [#ここから2字下げ] 極月(同) [#ここで字下げ終わり] 極月の大南風吹く一と日かな 石段の下に師走の衢《ちまた》あり 冬紅葉南風吹く日にどつとちる 冬紅葉一円相にちりつもる 落葉掃了へて今川焼買ひに [#ここから2字下げ] 柿(同) [#ここで字下げ終わり] 柿を置き日日静物を作《な》す思念 柿を置き牧溪に神《しん》かよはする 熟柿はやいま手を遂に触れ得ざる 潰《つ》ゆるまで柿は机上に置かれけり 身みづから潰《つひ》えんとして柿は凝り [#ここから2字下げ] 焚火(昭和十五年) [#ここで字下げ終わり] 焚火《たきび》して金屏風裡にあるが如 焚火あと光琳紅葉まきちらし 焚火人しらずや栄華物語 塔の森落葉煙の出し今朝よ 墓の面《おも》落葉煙にこそはゆき [#ここから2字下げ] 寒雀(同) [#ここで字下げ終わり] 上人の滅度の障子寒雀 菫咲き厳寒の御硯井戸 鵯や紅玉紫玉食みこぼし 鵯谺高杉の穂をさかおとし [#ここから2字下げ] 春信(同) [#ここで字下げ終わり] 蕗の薹《たう》小さき壺の緑かな 蕗の薹雪ふかければ青磁かな 蕗の薹息づく孔よ白雪に 蕗の薹雪|遍照《へんぜう》と落窪む [#ここから2字下げ] 謦咳抄(同) [#ここで字下げ終わり] そと殺す謦咳の程虔しく わが咳くも谺ばかりの気安さよ 大木の中咳きながら抜けて行く 咳きながらポストへ今日も林行く 五重の塔の下に来りて咳き入りぬ わが咳や塔の五重をとびこゆる 咳き込めば響き渡れる伽藍かな 寒林を咳へうへうとかけめぐる 咳き込めば我火の玉のごとくなり 咳止めば我ぬけがらのごとくなり [#ここから2字下げ] 寒堂(同) [#ここで字下げ終わり] 寒堂に光顔巍巍とおはします 大寒の下品下生のおんみこれ あかあかと木魚は寒きいきを吹き 枯芝に九品浄土《くほんじやうど》のみぢんたつ [#ここから2字下げ] 塵土(同) [#ここで字下げ終わり] 寒椿日輪まこと臈たくて ひと行くと躍り鞭打つ枯木影 寒梢の日の相既に沈沈と 笹よりも杉苗細し寒落暉 雪置きぬ塵土《ぢんど》三十八日目 木蓮に瓦は銀の波を寄せ 椿坂下より房子小さき辞儀 [#ここから2字下げ] 暮春の鶯(同) [#ここで字下げ終わり] 一天や鶯の声充ち満ちぬ 鶯歌ふ御空に朴の葉の車輪 ぜんまいは長《た》け鶯は声張あげ 蕗の葉に鶯|弾《はず》む谺かな 老鶯の正しさ老の身を知らず 鶯老ゆる木苺のあますつぱくて 鶯遠し近きはみやまなるこゆり 鶯歌ふ丘の鈴蘭花了る 鶯や落暉は瑠璃の天を衝き 鶯に夕星二三ひかりそむ [#ここから2字下げ] 初夏の径(同) [#ここで字下げ終わり] 椎落花煩悩匂ふ無尽かな 細道へ崖よりこぼれえごの花 著莪の花仰ぐ青き日崖を洩り 著莪の花崖の天日|深緑《ふかみどり》 櫻んぼくろき雀のあたまかな 栗の花白痴四十の紺絣《こんがすり》 明易き鶯聞きぬ二三日 [#ここから2字下げ] 窄き門(同) [#ここで字下げ終わり] 窄《せま》き門|額《ぬか》しろじろと母を恋ひ 窄き門臈たき母のかげに添ひ 窄き門嘆きの空は花満ちぬ つくづくし悲し疑ひ無き事も 鶯やすでに日高き午前五時 夕焼の中に鶯|猶《なほ》も澄み [#ここから2字下げ] 七月甘露(同) [#ここで字下げ終わり] でで蟲ら鋪道横ぎり牛乳来る 花馬鈴薯鼠のごとく雀ゐて 靄の視界電柱二本青トマト 茄子もぐけはひは靄の不可視界 トゲ残るきのふの不快|合歓《ねむ》に覚め 露の中露りんりんと日に光り 露涼し太陽の面まだ平ら 夏の日にしろくなりゆくわが面皮 なにゆゑぞ今年日焼けぬわが面皮 月見草|旦《あした》の露のみどりなる 黄の上に緑の露や月見草 汗たぎちながれ絶対安静に 夜もすがら汗の十字架背に描き 三時打つ烏羽玉の汗りんりんと 汗微塵身は冷静の憤《いきどほり》 汗の身の露の身の程冷えにけり 夕立来と烏蝶飛び烏飛び 起き出でて露芭蕉葉に額をつけぬ 露の蚊やつぶせば我が血すひゐしよ 雲も垂れ露芭蕉葉も垂れし今朝 芭蕉葉の露重畳の今朝は蒸す 露の掌に血の美しや蚊は空し 露の蚊の声を憎まずして殺す 迎へ火や蜩近き雲割れて 我が門火蜩嘆く空に向き 影法師|孤《ひとり》の門火焚きにけり 合歓は散り門火は細き炎かな 門火消えひとりのかげも消えにける 大露の露の響ける中に立つ 芭蕉葉の露集りぬ青蛙 青蛙はためく芭蕉ふみわけて 青蛙両手を露にそろへおく 百合の香の月光の森コロの森 童話めく梟の森夏星座 夏の夜の梟に吠ゆ犬|弊私的里《ヒステリ》 梟に誘はれ犬の明け易き 蠅を打つ神より弱き爾《なんぢ》かな 蠅打てば即ち蟻の罷《まか》り出づ 兜蟲み空を兜捧げ飛び 兜蟲み空に静止せる一と時 [#ここから2字下げ] 露蟲饗宴(同) [#ここで字下げ終わり] 白露やうしろむきなる月見草 今朝秋の露なき芭蕉憂しと見し 入歯にもけさ秋水のしみわたり 露の葛風一面に丘を越え あな白し露葛の葉のうらがへり かたつむり露の葛の葉食ひ穿ち 白芙蓉暁けの明星らんらんと 八重葎白露綿のごときかな 白鷺の十羽渡れる暁月夜 白鷺の渡れる月の空は暁け 心頭の蝉みんみんといさぎよし 夜な夜なの招きに蟲の饗宴に 月の面のきずかくれなし露の空 まつ蒼に朴立てりけり露の空 一と筋に露の空ゆく鐘の声 曼珠沙華今朝出頭す二寸かな 三日はや一尺五寸曼珠沙華 みんみんや鼻のつまりし涙声 また微熱つくつく法師もう黙れ 滅茶苦茶におしいつくつく法師かな 昏昏として長昼寝秋風裡 秋風やさゝらの棕櫚の蠅叩 何ゆゑにひらく扇ぞ秋風裡 珍重の扇開くや秋風裡 野分して芭蕉は窓を平手打ち 眼を射しは遠くの露の玉一つ 友が呼ぶ殺到し来る秋風裡 秋風裡我が小さき荷友が持ち 秋風に石垣高し素十庵 秋風や城のごとくに素十庵 露時雨物見の松となづけられ 秋風や稚子大声に待つ門に 好きといふ露のトマトをもてなされ 茄子汁の香に久闊の何も彼も 大根蒔き蕎麦蒔く法医学教授 蕎麦の花医科大学の庭にして 師ゐますごとき秋風砂丘ゆく 秋風に我が肺は篳篥《ひちりき》の如く 秋風に砂丘に杖を突刺し立つ 秋風にわれは制《セイ》※[#「咤−宀」、第3水準1-14-85]迦《タカ》童子かな [#ここから2字下げ] 玉霰(昭和十六年) [#ここで字下げ終わり] 玉霰幽かに御空奏でけり 玉霰錦木の実もうちまじへ 玻璃障子霰たばしり日ノ箭ふり 降り止んでひつそり並ぶ霰かな 玉あられまこと小さくちいさくて [#ここから2字下げ] 心身脱落抄(同) [#ここで字下げ終わり] 寒夜|喀血《かくけつ》みちたる玉壺大切に 寒夜喀血あふれし玉壺あやまたじ 咳かすかかすか喀血とくとくと そと咳くも且つ脱落す身の組織 冬晴を我が肺は早吸ひ兼ねつ 冬晴をまじまじ呼吸困難子 冬晴を肩身にかけてすひをりしか 冬晴をすひたきかなや精一杯 [#ここから2字下げ] 手鏡(同) [#ここで字下げ終わり] 病床の手鏡笹子生写し 病床の手鏡に逆枯芭蕉 手鏡やみ空の鵯の声を追ひ [#ここから2字下げ] 二水夫人土筆摘図(同) [#ここで字下げ終わり] 日天子寒のつくしのかなしさに 寒のつくしたづねて九十九谷かな 寒の野のつくしをかほどつまれたり 寒の野につくしつみますおんすがた 蜂の子の如くに寒のつくづくし 約束の寒の土筆を煮て下さい 寒のつくし法悦は舌頭に乗り 寒のつくしたうべて風雅菩薩かな [#ここから2字下げ] 房子金柑(同) [#ここで字下げ終わり] 金柑百顆煮て玲瓏となりにけり 日に透きし金柑の金茶の煙 金柑の二三顆皿に箸を添へ 金柑は咳の妙薬とて甘く [#ここから2字下げ] 春月(同) [#ここで字下げ終わり] 春月の國常立命《くにとこたちのみこと》来し 春月の眼胴《めどう》うるほひ雪景色 春水の底の蠢動又蠢動 春水の中の蟲螻蛄《むしけら》皆可愛 まつ青《さを》に鐘は響きぬ梅の花 [#ここから2字下げ] 鶯の機先(同) [#ここで字下げ終わり] 鶯の機先高音す今朝高音す ひんがしに鶯機先高音して 鶯の声のおほきくひんがしに [#ここから2字下げ] 抱風子鶯団子(同) [#ここで字下げ終わり] 抱風子鶯団子買得たり 買得たり鶯団子一人前 一人前鶯団子唯三つぶ 唯三つぶ鶯団子箱の隅 しんねりと鶯団子三つぶかな むつつりと鶯団子三つぶかな 皆懺悔鶯団子たひらげて 底本:「川端茅舎 松本たかし集 現代俳句の世界 3」朝日新聞社    1985(昭和60)年2月20日第1刷発行 底本の親本:「白痴」甲鳥書林    1941(昭和16)年発行 ※献辞、序文及び跋文は底本において省略されている。 入力:小川春休 校正:(未了) 2008年11月20日公開