人生の午後 日野草城 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)館《たち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)甘木|市人《いちびと》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》 ------------------------------------------------------- [#改ページ]  晏子さん もしもあなたが私を支へてゐてくれなかつたなら 私のいのちは今日まで保たれなかつたでせう この貧しい著書をあなたに贈ります これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです   一九五三年七月 [#地付き]草 城 [#改ページ]  昭和二十三年から二十七年に至る五年間の作品三一五句を収めました。  鈴鹿野風呂さんに序を、五十嵐播水さんに跋を、書いていただきました。昔の「京鹿子の三人」が二十数年ぶりに顔を合したわけです。  自分の句集を編むといふことはとても辛い仕事です。見れば見る程自分のみずぼらしさが現れてきます。この上多くの人々の厳しい眼で吟味されることを思ふと、げつそり痩るやうな気がします。   昭和二十八年初夏 [#地付き]著 者 [#改ページ]   昭和二十三年(一九四八)  前年に引続き、主として床の中で暮したが、終日臥床するのではなく、坐つてものを書いたり、時には近辺を散歩することもあつた。この年の春、豊中の家の所有者であるT氏一家が疎開先から引上げて来たので、同居二世帯十一人といふ賑かなことになつた。  T氏の小さな子供を連れて郵便局へ行つたり、市場へ行つたり、草を摘みに行つたりした。晏子や温子ともしばしば散歩した。小寺君の閑古堂をたづねたり、阪急百貨店へ本を見に行つたり、大阪府庁へ府営住宅の申込に行つた帰り放送局に旧友の水川局長をたづねたりした。残暑の頃小寺正三君の第一句集「月の村」の出版記念句会に出席したし、晩秋には田村木国翁還暦記念句碑建立の祝賀句会にも出席した。その頃調子がよかつたので、このまゝで快方一路だらうと楽観してゐたが、寒くなり始めた頃から熱が少しづつ出るやうになつた。お灸を据ゑ始めたのだが、その刺戟が強すぎたのではなかつたか、また部屋の明け渡しを迫られて家探しにあちこちしたのが応へたのではなかつたか、今にして思ふのである。  大寒や半天の碧玲瓏と ◎冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり  炭の香や嬌《たを》やぎそむる吾子《あこ》の指  寒の闇煩悩とろりとろりと燃ゆ  鼠捕り置きたれば闇いきいきと  かじかみて鼠近よる鼠捕り  かかりたる鼠と動く鼠捕り  朝雲は彩《あや》なせり咳もなきめざめ  壕の跡いまもくぼめり春の草 ◎しばらくは春草を見て夕かな ◎新樹撓めて神のあらあらしき息吹《いぶき》 ◎木を割《さ》くや木にはらわたといふはなき  試歩五十メートル往きて春惜む  妻の肩低きに手措き春惜む [#ここから3字下げ]あはれこの若者ラバウルにて両眼を失へりとぞ[#ここで字下げ終わり] ◎戦盲に腰を揉まるる夜の薄暑 ◎日光の青麦なりし月光に  新緑や薔薇の花びら地に敷きて  夕晴や大木のあふち今ぞ咲く ◎咲き闌けしけはひに散るや花あふち  妻かがむ樗《あふち》の花のこぼれしに  夕歩きアカシヤの木に花残る ◎白桃は熟るるばかりや古娘  白桃やひとごとのごと情痴古り  息を呑み蠅のいのちをわがねらふ  古妻のぐつすり睡《ね》たる足の裏  気がつけばことしの法師※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]鳴けり  蠅を打ち蟻をつぶして碌々と  青年の病死弔ふ朝※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]に ◎青年逝きぬその父の和顔の汗  望月の夜を豊かなる湯に沈む  十六夜は見ざりき風邪の妻と居て  一歩出てわが影を得し秋日和  夏を経しいのちのどかに秋凉し  露けしと墓の間を歩きけり ◎四十代五十に近し薔薇を愛づ  露を見てしづかに四十八才なり ◎ちちろ虫女体の記憶よみがへる  肌寒やわが着る軍の黄土シャツ ◎疲れたる紙幣《さつ》を共同募金とす ◎秋の道日かげに入りて日に出でて ◎いつしかに老いづきし妻よ草紅葉  初霜やひとりの咳はおのれ聴く  熟眠し暮秋嘆ずることもなし  水洟をかみて五十になんなんと  煎餅をしづかに割るや老の指  寒水の雑巾妻の手が絞る  くらがりに茶の匂ひ立つ冬至かな ◎霜白し妻の怒りはしづかなれど [#ここから3字下げ]暗夜あやまりて芦屋川に陥り落命したる白城四郎を悼む(二句)[#ここで字下げ終わり]  こののちは見まじと思ふ涸川を  とこしへに涸れてあれ禍《まが》つ涸川は  冬の眼のむらがつてゐるちまたをゆく  開運を待つこころにて年の暮 [#改ページ]   昭和二十四年(一九四九)  二月に風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた。四月二十五日休職期間満了、大阪住友海上火災保険株式会社を退いた。大正十三年四月二十六年入社したのであるから、きつちり二十五年在社したことになる。四分の一世紀、短い歳月とはいへない。一本に貫いた私の会社員生活も茲に終り、天下無職となつた。四月二十八日、一年間の間借生活を打切り現住所池田市中之島町十九番地の日光草舎へ移つた。一二回家の周辺を散策したことがあるのみで、爾来門外へ出たことがない。九月大阪星雲社より第六句集「旦暮」上梓。十月門田竜政、門田誠一、田中嘉秋三氏の手により「青玄」が創刊された。この年しばしば発熱し病状不安定であつた。 ◎死と隔つこと遠からず春の雪 ◎高熱の鶴青空に漂へり  鶴咳きに咳く白雲にとりすがり  寝汗冷え春のあかつきさしにけり  竿竹を買ふや初蝶日和にて  春の蚊を孤閨の妻が打ちし音  青麦の穂が暮るるなりしづかなり  病褥に四肢を横たへ離職せり  夏ひばり微熱の午後の照り曇り  ゆらゆらと仮睡《かりね》の妻や遠蛙  咲き切りし薔薇を眺めて倦怠す  花散りしばらの青垣雨ひねもす  夕歩き一清流に逆らひて  薄暑なり甘ゆるハワイアンギター  熟れ尽し麦は痩せけりわれのごと ◎これ以上痩せられぬ菖蒲湯に沈む  七月や髪うすうすとわが顱頂 ◎七月や既にたのしき草の丈  弾きて澄む顏は見えねど諏訪根自子 [#ここから3字下げ]病中 誕辰を迎ふること四たび[#ここで字下げ終わり]  誕生日ひげを剃りうまいものをくふ  めつむれば劫暑の天の大牡丹  蛍火の青きにおびえそめむとす  夏すがた妻が露《あら》はす腕に触る ◎妻の蚊帳しづかに垂れて次の間に  夏草や数へがたきは未知の友  八朔の鏡に骨をうつしけり ◎夏の闇高熱のわれ発光す ◎肋骨を愛すつれづれなる手|以《も》て  手鏡にあふれんばかり夏のひげ  死ぬときの鼠の声をききにけり ◎健康な妻を心の妻として ◎永劫の如し秋夜を点滴す  秋凉しわが※[#「身+區」、第3水準1-92-42]《み》は薄しいと軽し  咳の夜のわれを照らして秋蛍 ◎鯨肉を※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]みしだくいのち惜しければ ◎裸婦の図を見てをりいのちおとろへし  病むひとのひげも剃られて秋祭  鵙が鳴き柿が輝き秋祭  着飾りて畦に佇ちをり秋祭 ◎秋の雷仰臥の宙に激発す ◎叱られて雨を見てゐる妻の背《せな》 ◎煮る前の青唐辛子手に久し  肌寒や浅き廂に月照りて ◎露寒し猫が鼠を食ひ残す  月照りて夜空を青くなしにけり ◎おのれ照るごとくに照りて望の月 ◎切干やいのちの限り妻の恩  末枯や身に百千の注射|痕《こん》  大霜や茶を焙じゐる枕上ミ ◎衰弱す華麗な夜具に覆はれて ◎労咳の宝くじ買ふことをやめず ◎柿を食ひをはるまでわれ幸福に ◎芝枯れて福音のみづみづしさよ  観菊や指頭たのしむ酒精綿  貰ひたる柿を累々と積みにけり  胸廓の裡《うち》を想へば虎落笛《もがりぶえ》  風の音鵙猛りまた風の音 ◎山羊の乳くれたる人の前にて飲む  病体を拭いてもらひぬ柚子湯もて  冬ごもり妻の鼻息《びそく》をうかがひて  いそがしき冬至の妻のうしろ影  寒牡丹咲きしぶり咲きしぶりけり  年暮るる仰向いて句を選みつつ  大年や注射おさめのメタボリン [#ここから3字下げ]妻子は年用意に疲れて既に眠りに入りたれど、いかでこの悪しき年にとどめささでおかでやはと[#ここで字下げ終わり]  われひとりきくやラヂオ除夜の鐘 [#改ページ]   昭和二十五年(一九五〇)  一月、発熱を押へてストレプトマイシン五グラム注射、効果顕著。三月、温子豊中桜塚高校卒業、進学の志を捨てて母校事務室に就職。病状は前年よりも安定し、作つた俳句の数も多かつた。 ◎枕辺へ賀状東西南北より  大服茶《おほぶく》やひとのなさけにながらへて  お雑煮や病牀《とこ》に坐りて主ぶり  舌の先屠蘇に触れたるばかりにて  煮凝や凡夫の妻の観世音 [#ここから3字下げ]一月二十三日飼猫ルミ急死 五句[#ここで字下げ終わり]  猫死ねりいまはを人に知られずに  横に臥て小さきけものの死のひそけさ  猫の柩に大きするめを入れにけり  葬《はふ》る時むくろの猫の鈴鳴りぬ  凍る闇死にたる猫の鈴鳴りぬ    食思やや振ふ  忽ちに食ひし寒餅五六片    ルミ 二七日  分ち飲む猫亡しミルクひとり飲む [#ここから3字下げ]療養のため低声寡黙を守らさる[#ここで字下げ終わり]  朝つぱらからシヤリアーピン傍若無人なり  夜の雪われを敗残者と言ふや  みじめなる妻の下着や雪降れり  われ咳す故に我あり夜半の雪    温子高校卒業 就職  ほの白く化粧《けは》ひてあはれ子は勤む  働いて寒き闇より戻りし子  さりげなく進学の友の噂をする ◎子が買ひし飴をなめつつふと哀し ◎|少《わか》き子が獲て来し紙幣《さつ》は眼に痛き  平熱が続きをり春立ちにけり ◎うららかなけふのいのちを愛しけり ◎日脚伸びいのちも伸ぶるごとくなり  春昼の交響楽を溢れしむ  水温みつつあり妻の夜の祈り ◎うららかに而も来信沢山に ◎雨降れりみこころのままに成らしためたまへ  ひとの手の握り来し花束を受く  われになほ夢あり目刺渋けれど [#ここから3字下げ]北海道石狩より土岐錬太郎はるばる来りてわれを見舞ふ[#ここで字下げ終わり]  茶を飲むのみ北の涯より来し友と  ストコウスキー交響楽を指揮すわが為めに ◎毒団子鼠の闇に悲痛なり    温子よ ありがたう  これやこの珍《うづ》のバナナはそろそろ※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]く ◎暮春の書に栞《しをり》す宝くじの殻  麗日なり稿料二千円届く ◎清貧の閑居矢車草ひらく  健康な弟顔の汗を拭く ◎妻が持つ薊の棘を手に感ず    牀裡 第五の夏  蠅叩き引きつけ夏を迎へけり  痩腕に打ち据ゑたりし蠅うごく  麦熟れぬギタートレモロ練習曲  航空機胃の上を過ぐ餉後の臥  妻の留守折から梅雨の大降に [#ここから3字下げ]日曜のラヂオ声くらべ腕くらべ子供音楽会 二句[#ここで字下げ終わり]  音冴えてあはれをさなご弾き遂げし  をさなごゑうたひ外《はづ》さず涙出づ ◎夏布団ふわりとかかる骨の上 ◎梅雨の夜の夢に故人と歓談す ◎佳き目覚朝の虹立ち朝の楽    自照 ◎ながながと骨が臥《ね》てゐる油照 ◎病むひとの大暑のいのちかすれけり [#ここから3字下げ]七月十八日 わが誕辰 三句[#ここで字下げ終わり] ◎生き得たる四十九年や胡瓜咲く  わが前の蒲焼の値を妻言はず  水枕して睡《ね》てばかり誕生日  黒とんぼ猫に食はるる声も無く    田村木国翁来る  老友が坐る土用の古畳 ◎昼も臥て若き日遠し草茂る ◎猫の子を妻溺愛すわれ病めば  日《にち》々にいのちを継ぎて夏を経ぬ  爽かやことしの夏も死なざりし  わが病古りぬ溲瓶も古りにけり ◎平凡に咲ける朝顔の花を愛す  残暑に倦み猫を邪慳に扱へり  月の出や滅法涙脆くなり ◎余命いくばく生命保険払ひ込む  颱風に仰臥の四肢をこわばらす  草深に露命を維《つな》ぐ秋日和 ◎生きるとは死なぬことにてつゆけしや ◎しびとばな生けて花買ふこともなし  てのひらに一顆珠なす青ぶどう  枕頭に柚子置けば秋の風到る  病む鶴のうすき翼を張りにけり  病む鶴の高くは翔《と》ばぬ露日和  病む鶴の老足露にまみれけり  病む鶴に添うてなまめく妻の鶴 ◎白菊の九つの花みな薫る ◎病室の簷へ来て鵙が歯ぎしりする ◎全身を妻に洗うてもらひけり ◎肌寒や妻の機嫌子の機嫌  疲れ寐の妻の寐顔や昼の虫    鈴鹿野風呂翁来る  無花果を提げて三十年の友 ◎枯るるもの青むもの日のしづけさに ◎荒草の今は枯れつつ安らかに    冬至  うれしさよ柚子にほふ湯にずつぽりと  干菜湯や世を捨てかねて在り経つつ ◎何か愉し年終る夜の熱き湯に [#改ページ]   昭和二十六年(一九五一)  七月十八日満五十歳となつた。このころ右眼失明した。緑内障。病状にはよい変化もなく、悪い変化もなかつた。断続してパスを服用して相当量に達したが、格別の効果は認められなかつた。 ◎戸を繰るや年の初風そよそよと ◎生きてまた年を迎へぬ咳溢る ◎元旦の焜炉をあふぎはじめけり  雑煮餅坐りて食ふや癒えしごと  髪減りて数の子も歯に合はずなりぬ  食ふまでのたのしさ尽きず寒の柿 ◎衰へしいのちを張れば冴返る  わが猫が雄猫に媚態示しをり  湯あがりの妻の若さを如何にせむ  寝ね悩む妻の長息きこえけり ◎恋ごころわが子にありや初雲雀  物の値がまた騰りそめ日脚伸ぶ  朝しづか春の雨だれぴちぴちと ◎妻の留守ひとりの咳をしつくしぬ  蒲焼をするらし早も堪へがたし  探しても妻の居らざる昼寝ざめ  跳び移りそこねて孕み猫あはれ  午後長し微熱の額《ぬか》を客に向け  鳴き明し昼は眠れり梅雨蛙  病み病みて欲しいもの減りゆきにけり [#ここから3字下げ]七月十八日 満五十歳 二句[#ここで字下げ終わり] ◎半世紀生き堪へにけり汗を拭く ◎瓜揉や名も無き民の五十年 ◎子を盗られ母の老猫行きては鳴く  宵闇に臥て金星に見まもらる ◎もの言はぬ猫と留守居の刻《とき》ながし ◎たのしけれメロン切る日を延ばしつつ    偕老二十年 ◎妻の手の硬くなりゆくばかりなり [#ここから3字下げ]遽かに右眼の明を失す、日を経てなほ恢復せず[#ここで字下げ終わり] ◎右眼には見えざる妻を左眼にて ◎貧凉しコスモスの葉に月さして ◎汗臭ふ貧しき友の呉れし金  三伏や見ゆる一眼大切に  土用干いつ着るわれの服も干す  こほろぎや老眼鏡を妻もちふ ◎新凉やさらりと乾く足の裏    子規五十年忌  仰臥して仰臥漫録の著者を弔ふ    フルート協奏曲 ◎露けしやフルートひとり歎くとき  藷あまし生計《みすぎ》もひとのなさけにて ◎なまぬるき牛乳を飲む秋の暮 ◎妻の留守妻の常着を眺めけり  妻われへ夕路《ゆふぢ》をいそぎつつあらむ  菊の香や裏をつけたるひとへもの  気の弱りひとには告げず秋日和  さはやかや遠野に犬が吠ゆるさへ ◎菊見事死ぬときは出来るだけ楽に  秋深し客のなき日のつもりつつ ◎夜陰咳はげし満樹の露こぼる ◎玉菊の衰ふること忘れしや ◎ただ生きてゐるといふだけ秋日和  猫の子が猫になりゆき寒くなる  常《つね》臥せば猫にも見おろされにけり    憐妻 ◎ちちろ虫孤閨更年期に入りぬ  日短か友の葬《はふり》の夢を見て  親猫はずつしり重し冬ごもり  歯が痛しさだめし歯痛顔ならん  小走りに妻の出て行く冬至かな ◎咳発す胸中に磊塊存し ◎わがゆまる音のしづかに年暮るる  わが好きの蒸羊かんを※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]みつつをり [#ここから3字下げ]ラヂオを聴き北辺の錬太郎を思ふ[#ここで字下げ終わり]  きこえをり北のはたての除夜の鐘 [#改ページ]   昭和二十七年(一九五二)  発病以来病状の最も安定した年であつた。発熱したことは年間を通じて数へる程しかなかつた。夏のはじめにストレプトマイシンを十グラム用ひた。効果顕著であつた。ヒドラジツドも約百日服用したが、この方は格別の効果を認めなかつた。十月「青玄」は三周年を迎へた。これもまた安定点に達したものの如くである。  いそがしき妻も眠りぬ去年今年 ◎既に昭和二十七年のしづかな闇 ◎初咳といへばめでたくきこえけり  福寿草平均寿命延びにけり  半盃の酒を嘗めけり年を祝《ほ》ぎ  勤めに出る子を目送す寒波来 [#ここから3字下げ]二月四日、二十一年前のこの日われ等夫となり妻となりぬ 回想一句[#ここで字下げ終わり]  妻籠《つまご》みに白雪降りて積けり  またしても妻の足音かと思ふ  まじまじと猫に見られて養生す  炭継いで上げし明眸にて視らる  食べさせてもらふ口あけ日脚伸ぶ  うぐひすや春眠の尾のなほ煙る  アイリスを見ゆる一眼にて愛す  薔薇の香ありけふのいのちを眠らしむ ◎囀りや都会を見ざること久し ◎みな花のかたちにてゆきやなぎの花  春寒し見えぬ眼に眼ぐすりをさす ◎ひねもすの風をさまりて春の夜  つれづれに夕餉待たるる木瓜の花 ◎木瓜の花紅し物慾断ちがたし  春の雨五慾の妻が祈念せり  貧厨に卵を割りし音一つ  暮遅し一眼に読むことにも馴れ ◎見ゆるかと坐れば見ゆる遠桜  春の灯の更けて明るくなりにけり  よちよちと窓までゆきて春惜む [#ここから3字下げ]五月十八日 森田たま女史来る、生面[#ここで字下げ終わり]  君汗を拭きつつ既にしたしけれ [#ここから3字下げ]同日 五十嵐播水博士哲也君を伴ひて来る[#ここで字下げ終わり]  薫風や友の佳き子を見つつたのし [#ここから3字下げ]草刈春逸博士を悼みその夫人に示す 二句[#ここで字下げ終わり]  初蛍かなしき家も寐しづまり  夏の雲かなしき家に薔薇咲けり    鏡中影  かびの香やくちびる沈むひげの中  妻機嫌よき日は百合も匂ひ立つ  妻萎えてぺたりぺたりと歩きけり  グラヂオラス妻は愛憎鮮烈に  初※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]をきくや厨の妻を呼び  七月の下水が気持よく排《は》ける  凌霄《のうぜん》落花人を馘《くびき》りたりしこと [#ここから3字下げ]七月十八日 第五十一回誕辰[#ここで字下げ終わり]  あぶら汗拭ひ馬齢を加へけり  地震《なゐ》激したかぶる妻と子に抱かれ ◎見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く  西も※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]東も※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]や西瓜切る  かねたたき高温多湿の日が暮れて  恋愛詩誦し葡萄の珠ふくむ  なにがなしたのしきこころ九月来ぬ  杖ついて畳を歩く鵙日和 ◎すらすらと昇りて望の月ぞ照る  十六夜やいまだしめりて洗ひ髪  ラヂオ体操の曲にて指を屈伸す  財宝の如し大柿十七顆  コスモスや妻がやさしく子がやさしく  冬ごもり寐間着の柄《がら》が気に入りて  季節風いのちを庇ふ家軋む  妻はまだ何かしてをり除夜の鐘 底本:「日野草城全句集」沖積舎    1996(平成8)年10月30日発行 底本の親本:「人生の午後」青玄俳句会(尼崎)    1953(昭和28)年7月発行 著者:日野草城(1901(明治34)年7月18日〜1956(昭和31)年1月29日) ※鈴鹿野風呂による序文、五十嵐播水による跋文は省略した。 ※「草城三百六十句」に収められた句は、草城が最晩年において、過去の句業のなかから三六〇句を自選したもので、草城にとって、もっとも愛着のあるものと思われ、代表作と見なされるものであり、「草城三百六十句」に収録された句には、句の頭部に◎を付した。 入力:小川春休