家郷の霧 飯田蛇笏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)館《たち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)甘木|市人《いちびと》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#「木+要」、第4水準2-15-13]《かなめ》 ------------------------------------------------------- [#改ページ]   [#大見出し]昭和二十七年[#大見出し終わり]    [#中見出し]春[#中見出し終わり] 時のかなた昇天すもの日のはじめ 冴ゆる灯に新年夜情雪のこゑ 地汎くて鉄工場の春燈 山嶮し無縁仏に解くる雪 しんかんと春の暖房禍福なく 鳶ともに雲遠ざかる春北風 青馬《あを》牽けば驚破《すは》競馬場春の鬨 日りんの灼くる青炎春競馬 詩になづみ世と容れねども春の燭 夜は青し神話に春の炉火もゆる 老鶴の天を忘れて水温む 石卓の花の全貌春の燈に 月盈ちて春俄かなる釈迦の嶮 奥嶽も啓蟄となる宙の澄み 風致区の宙かゞよひて麦黝む かげろうて金輪際や雪解富士 鷹翔ける影ほのかにて雪解富士 春袷人中に眼をぬすみ視る 橿鳥《かしどり》に峡の逆光根雪解く 彼岸雨詣でし墓を傘の内 伯父訪ふも海員気質春の霜 たち入れば木原霑ふ芽吹時 やまかひに雲をたゝみて弥生尽 蔵の香に狎れしなりはひ桃の花   甲府愛宕山 外科療舎出て荼毘のみち緋桃咲く 百千鳥藪透く後山|暾《ひ》ざしそむ 墓を建て栖する地の落椿 あながちにはかなからざるおちつばき   河口湖 あら浪に鴨翔けもして春の雪 [#ここから2字下げ]常陸に旅して横瀬夜雨を偲ぶ[#ここで字下げ終わり] 春さむく筑波の詩人すでになし [#ここから2字下げ]二月三日嶽麓文化人連盟の大会へ招かれ積雪の御坂峠を越す[#ここで字下げ終わり] 白樺に宿雪あまねく嶽澄めり   袋田観光 三句 四度瀑の天にすわる日桃の花 寒明けの日光溶くる温泉の澄み 春の月雲洗はれしほとりとも [#ここから2字下げ]鍛冶由緒に曰く「之を以て世に伝ふる五十一代、年を経る七百五十余年、宗之の考案にて祖先伝来の鍛錬法を応用し製作せるものにして、其の一端を糸にて垂下し、両辺相触るゝときは音響恰も鈴虫の声韻に異らざる特趣あり」と[#ここで字下げ終わり] 吊れば鳴る明珍火箸余寒なほ   第一の孫女公子 バンビ見に孫女をつれて浅き春   第二の孫女純子 抱く乳児の手をもにぎりて春炬燵   袋田の滝 三句 裸木に春めきたちし渓こだま 人去つて雉子鳴くこだま滝の前 春蘭のふかみどりなる雲の冷え    [#中見出し]夏[#中見出し終わり] 山ふかむほどに日鮮か夏来る 高台に高嶺のはだへ夏迎ふ 夏来れば夏をちからにホ句の鬼 夏に入る喬樹の太枝見えにけり 水郷の暑を寺妻に見送らる 懐紙もてバイブルの黴ぬぐふとは 身もて蔽ふ咳く幼児に梅雨嵐 夏風邪に臥せば亡児のゆめまくら 涼台にくらやみや艶蚊遣香 むつましく絽蚊帳の出入りおともなく ねざめたるはだへひやゝか蚊帳の闇 花桐に近山ひろく渓向ひ 好日の梅おちまろぶ苑の苔 家愉し脣をしたゝる桃の漿 青林檎むくや慈悲心なき手もて 胡桃生る樹下の誰彼闘士の葬 胡桃樹下早瀬のほたるよどみては みのりそむ茄子のひろ葉のこむらさき [#ここから2字下げ]屋前後の土蔵二棟をこぼつ[#ここで字下げ終わり] 古蔵の香を忘れ去る日の盛り 夏尽くる渓の喬樹に天の凪ぎ   あを馬頌 三句 新緑に乗らんと牽けば青馬の肥え 青馬牽けば蹄音場にさきだちて 女菩薩の猩々緋服青馬の騎手    [#中見出し]秋[#中見出し終わり] 黄落のまひるかそけき鳶の舞ひ 秋晩く雲に紅さす巽空 樵夫らの負ふ子牽く子に地蔵盆 詣でたる墓前の妻の草がくり 地に生きて人を忘るゝ露の秋 遠澄みに露雲を敷く駒嶽の嶮 人行かず秋は日南に渓の音 田園のくらし素直に水澄めり   田園深秋 みえわたる耕土西より秋日のみ   白雲山廬 市街の灯見るは雲の間夜の秋 [#ここから2字下げ]九月二十一日富士に初雪を見る[#ここで字下げ終わり] 雪を被て富士に迥かにいわし雲 山々の近むとみしや露しぐれ 日々に見て菜のとくしげる露しぐれ 夜を寒み座にねむりては句を選む [#ここから2字下げ]十一月九日宮光園に招かれて[#ここで字下げ終わり] 西日さす天皇の碑に葡萄熟る [#ここから2字下げ]「青栗」一周年を祝するにあたり、なにゆゑともなしに曾遊の叡山西麓なる詩仙堂がおもひ出されて[#ここで字下げ終わり] 新月のはやき光りに添水《そうづ》鳴る 鳳蝶の喬樹をくだる露しぐれ 巌ともにわが影寂ととんぼ見る 虫絶えぬ渓声風にたかみては ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]を掌におきてしんじつ虫の夜 秋暑なほ黍日かげるに螽※[#「虫+斯」、第3水準1-91-65]鳴く ことごとく虫絶ゆ山野霑へり 曼珠沙華咲きそめし紅ほのかにて 山泉常山木の揚羽しばらくは   林間逍遥 喚声をあげては隠れ秋の渓 [#ここから2字下げ]なにがしの粋夫人、自園の菊花をとりためて菊枕といふものをしつらへ、はる/″\贈りきたる。すなはちその情を感じ菊枕の句を作る[#ここで字下げ終わり] 恋ごころより情こもる菊枕 夜々むすぶ夢の哀艶きくまくら 文学の使徒がねむれる菊枕 詩にやつるこゝろの古風菊枕 菊の香にやすんずるまもなきまくら 老いぬれば泪にしたふきくまくら 仏心をこむるばかりの菊枕 偲ぶより香のしづまらず菊枕 地と水と人をわかちて秋日澄む 花を了ふ常山木いよいよ崕に満つ あさがほの大地になじむ花の瑠璃 残暑なほ胡桃鬱たる杢の家 淡々と夕影しみる稲の出穂 [#ここから2字下げ]十月二十七日大森にて[#ここで字下げ終わり] 旅客機をふり仰ぐ地の菊車   北辺小樽港 海澄む夜北港あげて流燈会    [#中見出し]冬[#中見出し終わり] 凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る 嶽のねむりしみらに鷹の翔りけり 凍る世の眼にみえねども文の陣 誼にこゝろして暖房をおとづれぬ こゝろなごみゆく地の起伏冬日和 鞘払ふ刃に短日のひゞくさま 財賭けし獣屋のふゆ日かげ満ち 金鉱を獲んと僧ゆく冬日かな 鉄塔は野にうすかすみキャベツ植う 鉄皿に葉巻のけむり梟の夜 北風あれて機音ゆく雲光るのみ   嬰児愛撫図 寒燈に詩のごとき眼のため泪 神は地上におはし給はず冬の虹 時の羽風冬日輪のゆるるさま 魂沈む冬日の墓地を通るかな 枯山にはるか一つの葬を見る 遠めきて尖々の澄む八嶽の冬 聖愛を羨もしくゆけば冬の風 金輪際影曳くめしひ冬日向 [#ここから2字下げ]某夜十時突然なにがし訪れ来る[#ここで字下げ終わり] 短日の獄はなたれし僧を泊む ひとり踏む山墓の径芝の霜 あしおともたてず悪友霜を来ぬ 霜つよし忿りをかへす天の壁   一月八日沢林所見 倒したる大樹をわたる霜の杣 霜を来し懺悔の前の燭二つ 霜をふみ悲願を抱きて歩きけり [#ここから2字下げ]農山村の生活状況も近来漸く旧態に復さんとするものの如し[#ここで字下げ終わり] 婢が活くる葉蘭こゝばく寒の内 生涯を感謝すこゝろ落葉降る 雪つむや亡き児の形見歳古りて 奥嶽の雪を新たに雲を絶え 雪林の遅月に逢ふ猟夫父子 寒埃りして老農が藁草履 雪山の肌をはなれて雲移る 雲みだれ瑠璃のぞきては雪後の天 わが失意石油にほひて雪の暮 雪幽くつのりて軍靴湧くごとし 峡の栖寝ても雪光金屏風 電気炉の烈しき雪の香だちけり 晴雪に枯れ葉のしげき丘林 日りんに耐ふる雪嶺雲を絶え 岬山の墓を見かけて雪の肌 野兎追うて雪嶺それし鷹一つ [#ここから2字下げ]遺児公子七歳の春を迎ふ[#ここで字下げ終わり] 雪山にこもりて孫を愛す情 山は午の渓をへだつる雪の面 雪の香に鄰保親しくすまひけり 帰りきて雪峡の廬に友ゐる灯 雪光に炎ばしる猟の大焚火 やむ雪に鷹をはなちて釈迦の嶮 雪峡に累代の墓うるほひて   K―動物園 愛を知る牝獣の前雪降れり   袋田温泉行 やまびこをこす一行に瀑の凍て 滝尻の渦しづかにて雪の中 雪嶺をわたる陽こゝに四度の滝 たち去るや又凍滝をふり仰ぐ 山たかく湯滝は雪の新しく ゆあむ娘ら温泉の雪光を四方にして [#改ページ]   [#大見出し]昭和二十八年[#大見出し終わり]    [#中見出し]春[#中見出し終わり] 春めきてものの果てなる空の色 雪山をめぐらす国土日のはじめ 女人の香亦めでたしや老の春 初年の山河渺たる日のみくら 五指の爪玉の如くに女正月 山棲みの畳青しも寝正月 八方の嶽しづまりて薺打   八ヶ嶽開拓村 高嶺並む広袤《くわうぼう》に住み鍬はじめ 初富士に歳月つもる雪中廬 こだまして初年ぬくき山の瀑 高原の年を新たに嶽を前 鉄塔も日も寒明の野の力 雪解する無間の谷に駒嶽の壁 雪解けぬ跫音どこへ出向くにも 芽木を透く谷川煽ち流れけり 荊ふかき河岸の老柳絮舞へる 春光の中に地の愛みなぎりて 春ふかむ大嶺孤つに雲の鳶   嶽麓山中湖 燕むれ湖は春ゆくヨットの帆 したゝるとおもへばきゆる春の露 春の露巌貌恍とありにけり 日の下に春の遅々たる地のねむり   後庭小花壇 冬眠をさめし地にたつ種袋 蜂とぶや鶴のごとくに脚をたれ 花咲ける豌豆の葉に露の玉 とまるより妖しき光りつばくらめ 風光る海の二階のかもめどり 山ふかくあふるゝ泉桜ちる [#ここから2字下げ]河口湖をへだてて富士に対する峠頂上に太宰治の碑建つ[#ここで字下げ終わり] 湖を瞰ていこへばこゝに暮の春 [#ここから2字下げ]四月二十四日参議院議員選挙の投票を了へて上京、翌日東京駅より一路西下す[#ここで字下げ終わり] 春の日は無限抱擁月をさへ   岐阜長良 金華山囀りもなく塔かすむ まなじりに比良の雪光暮の春 [#ここから2字下げ]岡山市外渓翠苑へ向ふ[#ここで字下げ終わり] 春の鳶岡山平野麦穂立つ [#ここから2字下げ]四月二十七日長島へ着す[#ここで字下げ終わり] 長島の春|趁《お》ふこゝろ※[#「區+鳥」、第3水準1-94-69]啼く 日りんのかすむ光りを浪にのみ 拝堂の鐘かすみたる記念祭 島々の花をなごりに瀬戸の潮   津山「有茂登」荘 藤褪せし灯ともし頃の夕嵐 春尽くる山べの茶屋へ泊りがけ   白鷺城 城内のなにか明るく暮の春 [#ここから2字下げ]五月二日神戸観光ホテル一泊[#ここで字下げ終わり] 老鶯に樹隠るみなと灯りそむ   洛北寂光院 旅こゝに寂光院は春の寂び 叡山の昼月に野の春を趁ふ 月てらす日の没るなべに比叡の春   三千院 翠黛をながむる犬に遅桜 [#ここから2字下げ]難波の通人無声洞のあないにて「ほてい」屋の一夕[#ここで字下げ終わり] 鰒啖ぶなにはのやどの春火桶   大阪にて 地の沈下浪にしたがふ友千鳥    [#中見出し]夏[#中見出し終わり] 喬槻に渓のとゞろき夏来る 月色に夜にみれんある夏山路 藪を抽く幹の霑ふ梅雨嵐 まのあたり嶽しづもりて梅雨の雲 くれがたく蛍光燈に梅雨の映え メロン摂る夜のにほひに人を容る 閨房に卓をかまへぬメロンの香 時化了る立夏のしづく槻を滴る こくげんをたがへす夜々の青葉木菟 菜はちりぬ熟れそむ麦穂あきらかに   瀬戸内海の思ひ出 みじか夜の夢をまだ追ふ浪まくら 山塊を愛する初夏の情そゞろ スリッパに初夏の情感素足なる 炎天のねむげな墓地を去らんとす 清流を乱射す斜陽青胡桃 槻たかく鳳蝶上る土用明け 濁流の木深き雨に川鴉 [#ここから3字下げ]註。川鴉は燕雀類、全身茶色にして嘴長く先端彎曲して魚を捕ふるに適す。とぶこと迅速羽ばたき多く、山間の渓流に棲む。[#ここで字下げ終わり]   俳友一泊 客親しひとり清水に嗽ぐ [#ここから2字下げ]汀波終焉 九月十二日[#ここで字下げ終わり] たまぬけし容顔ちかく梅雨の燭 梅雨靂し娘ら哭するもとめがたき たれをもみず莞爾と梅雨の亡汀波 一瞬の亡びに永久の梅雨仏 白浴衣身の嵩うすくなりにけり 昇天すまことに梅雨の燭二つ 梅雨の供花命やうやく遠ざかる 短夜の一身棺にをさまりて 雲の間の嶽は渺たり夏尽くる    [#中見出し]秋[#中見出し終わり] 秋の雪北嶽たかくなりにけり 山吹の落葉し尽す露の川 月光は槻に黄なりき木菟の群れ 露の富士夜のことばもて愛さんか 露ふかく山ふところの火葬場 [#ここから2字下げ]身延山山坊に人を訪ふ[#ここで字下げ終わり] 久遠寺の奥の霜晴れ常山木照る 高原の雲は冷やか機影ゆく 僧つれて女艶たる墓まゐり 露晴れの爆発したる如き瑠璃 露をだく地の迥けさに朝焼す   白雲山廬の湯 渓声に屋をはなれて露の燈 冷やかに山嶽挙げてわびごころ 林間をさし上る月迅かりき 秋山に野路のとゞまる墳どころ 秋嶺のそばだつは些の雲を曳き 秋山に呼ぶは童子か老い鴉 お舎利みゆこだまをかへす秋の嶽 [#ここから3字下げ]註。お舎利は老樹枯れ朽ち、雨露風雪にさらされたる残存体[#ここで字下げ終わり] 高原の虫夜を絶えき天に富士 霧たえて嶺に北面す遭難碑 鳴く虫の咫尺にありて昼の翳 稲すゞめ帰るつばめは雲の間に 暮れ空に溜井の光り秋燕 地に墜つも草にすがりて秋の※[#「虫+單」、第3水準1-91-66] [#ここから2字下げ]七月七日はじめて後山に寒※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]をきく[#ここで字下げ終わり] ひぐらしに無明の星をむかへけり 虫絶えぬ渓声こだま競ひたち 鵙の雌が子にひらく羽の黄昏るる 卓の灯に月さす林檎紅鮮た サルビヤに湯を出し裸斜陽さす    [#中見出し]冬[#中見出し終わり] 冬といふもの流れつぐ深山川 冬ぬくく嶽に昼月ありとのみ 暾あたりて初冬の凪ぐ槻の膚 冬渓をこゆる兎に山の月 白樺に凍てのとゞまる斜陽光 ゆくほどに冬晴れの峡道通る 月明をおどろくねざめ年暮るる 年暮るる野に忘られしもの満てり われ泣くもいとしむことも寒の闇 野水迅く耕土冬日を逝かしむる 寒の月白炎曳いて山をいづ 逝くものは逝き冬空のます鏡 日強くて渓瀬の澄みに冬嵐 寒の晴れ爆音空を吹かれ去る 寒の内光るかまちに家の責 ゆく年の水月をみるふところ手 冬水に鴉溺れず岸にあり 田子の老冬日はげしく股を貫く 更闌けてかゞり瞬く除夜の炉火   身延山山坊 うつくしき僧の娘二人除夜の炉に 夕鳶の翔けかたむきて玉あられ 小禽屋の前のかたらひ雪日和 雪嶺にこゝろひかれて陽の歩み 山棲の鄰保親しく雪つもる 嶺々の雪四方にかゞやく葬見舞 閨中の灯をおもふべし夜半の雪 風雪の光りみだるる冬木原 槻の枝に笹雪の添ふ二三日 鴨もろく飛雪に遠く撃たれけり 雪山に無韻の流れ一と筋に 四方の嶺々雪すこし被て文化の日 霜柱掌に日りんが小さくなる 人責むるおもひ一途に霜夜かな 霜日和渓かたらへば丘応ふ おく霜を照る日しづかに忘れけり 空林の霜に人生縷の如し 神の座も獣の場も霜日和 桑落葉冬草しげくなりにけり わが童女似る彼は亡く落葉降る 冬草を耘《き》りていこへば天聾す 邯鄲をとめたる草も枯れはてぬ 冬の嶽古り鎮まりてあきらけく 蹲めば魂すゝり泣く冬泉 茶の木咲きみそらはじめてみるごとし 橇馬の臀毛少なに老いにけり 橇馬に陽はかゞやくも雪の涯 橇馬の鞭音地に徹りけり 鞭が毛をむしる老馬橇の冬 橇の馬泪をためて牽かれけり 橇馬の屍に海おもく曇りけり    [#中見出し]魚山と長島[#中見出し終わり] [#ここから2字下げ]光明園及び愛生園[#ここで字下げ終わり] この島におなじ日りん花菜時 島山の鐘しづまりて名残り花 ゆきずりに春の処女寮こゑひそむ 癩園の花壇にふるふ大揚羽   園内講演 花の春十字を負うて病者に見ゆ 島訪ふも余命いくばく春北風 花嵐亡ぶるものは地に哭す 花の春袖口紅き病婦たち ちる花に病者有情の朝夕 花曇りして児もなくて女夫寮   園内の俳人数十名 春愁の詩に世の常のわびごころ   処女寮 鏡立つ窓の乙女に花無慚   島内一泊 花の月全島死するごとくなり 花の窓めざむるものに夜の海 海凪ぎて朝の島山春の※[#「虫+單」、第3水準1-91-66] 山つゝじ海をかなたに午後の凪ぎ 春暮るる海の濃藍島を発つ 天は瑠璃祈りを秘めて春の航   寂光院及び三千院 寧楽の春娘らとわかれて魚山行 暾あたりて露のキャベツに山蛤 青踏むや鞍馬をさして雲の脚 くもりなき魚山のあそび松の花 尼僧院とうて魚山の春を趁ふ [#ここから2字下げ]寂光院 落来る水の音さへ故び由ある所なり、緑蘿の垣、翠黛の山、絵に書共筆も及びがたし――(平家物語)[#ここで字下げ終わり] 翠黛に雲もあらせず遅ざくら [#ここから2字下げ]おもひきやみやまのおくにすまひして雲井の月をよそにみんとは 建礼門院[#ここで字下げ終わり] いまの代も山草闌けて青飢飯 寒食や草生の院の寂光土 数珠の手に花種を蒔く尼ぜかな ひとりねて尼僧のむすぶ春の夢   寂光院本堂 廊わたる尼袖あはせ若楓 眼ほそめて春日仰ぐも尼の君 幽情をこゝに草生の女院像   阿波内侍張子像 春暖く仏にあらぬ龕の比丘 遅日光ほとけいぢりの尼ならば 老鶯も過ぎし女院の膝の前 鏡見ゆ尼の閨窓白つばき 新尼のまなざし澄みて目借時   三千院 石楠花に聚碧園の樟落葉 樟落葉間遠にちりて歩々の苔 石楠花に三千院の筧水 門限を出て翠黛の春ふかむ 夕焼けて空の三日月鞍馬路 [#改ページ]   [#大見出し]昭和二十九年[#大見出し終わり]    [#中見出し]春[#中見出し終わり] 正月の身をいとほしむ情切に 正月のこゝろわかきはわれのみか あらがねの地を力とす日のはじめ 月夜にて常のサロンの年新た ※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]旦の月夜とおぼし峡も奥 渓流に雲こそあそべ年新た アルプスに雪をむかへて初鼓 大嶺よりやまびこかへす薺打 雪峡にしづもる家族薺粥 年新た龕に灯す雪の屋 雪やみて官衙に強き初御空 渓沿ひに女礼の登る深山寺 夜を朝に還す歓声春の渓   山村人工孵化場 養※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]の春きざしたる燈にほひ 春兆す月の出汎く地を蔽ふ 春めきて夜明くる風を非情とも 春は夜風四段五段と吹きにけり 春の雷地の執着に誰となく 心くらくテレビに佇てば春の雷 春の高台北の浮雲夕凪す 凍てゆるぶあたりの歓語嶽の径 春暖の思索瑣細に山ずまひ 麦青し近嶺遠嶺のたゝずまひ 炉火親しむつきの故山雲ふかく 春の風邪うつうつと書く懺悔録 [#ここから2字下げ]微恙、一九四〇年の大陸旅行を回想す[#ここで字下げ終わり] リラ咲きて旅懐しく春の風邪 墓の上に嘴太鴉雪解急 雪解山奥めく雲のたゝずまひ 春ふかく旅ゆく人に山聾す やまなみのくらき雪光春祭 嶽は嶽の高さきそへり霜燻べ 霜燻べ河港はひたにしづまりて 死火山の陽は青々と鴨引けり 雁ゆきてべつとりあをき春の嶺 芸術の階を眼さきに花の闇 こゝろざし今日にあり落花ふむ 植林のかすみて遠き雉子かな 世を恋うて花菜の嵐吹く中に   嶽麓河口湖 花ふゞきして日みなぎる湖の波 春尽くる有情にとかく小夜嵐 雙燕をしのぶ信濃の浴泉記 風きつてあした峡間の初つばめ 蝶とぶ風心の岸を洗ひけり 春霜をふみ行状をかへりみる 寒明くる渓のとゞろきくもれども 寒明の濡るる棚田に渓の音 春嵐郷に執するわびごころ 遠ければ鶯遠きだけ澄む深山 花過ぎの夜色なづみて遠蛙 桃芽立のこれる花の二三弁 一瑣事のこゝろを苛むる暮春かな [#ここから2字下げ]芦川幽谷の村嬢ら日々の払暁、炭を負うて峠を越え来る[#ここで字下げ終わり] 女神らは穢を萌草に雲の中 奥嶽に瀑の聾ひたる暮春かな 日に親し春ゆく山の巌に凭る 法廷を出て春徂くか灯しごろ    [#中見出し]夏[#中見出し終わり] 藪の樹の夏めき昏れぬ青葉木菟   T―の終焉に参じて とゞめたる男のなみだ夏燈   裁判所にて 審判の婦の泣く汗に夏来る 歳古く山川暑気に耐へにけり 婦がとりて鎌鋭利なる夏来る 顔蒼き破片身近に夏燈 暑にめげず百姓稼ぐ山の際 野にむるる九時の百姓いきれそむ 炎天の蝶鄭重に靴のさき 炎天を槍のごとくに涼気すぐ 炎天の山に対へば山幽らし 鉄橋のかくれもなくて夏雲群る 雲の峰高過ぎ炎暑あしたより 夏かすむ日ざしに疲れむし螽※[#「虫+斯」、第3水準1-91-65] 月暁くる杜にあまたの夜鷹啼く 中年の家わすれねど海水着 殻蝸牛人生おもひ測らるる 麦は穂に野坂のしめる狐雨 郭公啼くかなたに知己のあるごとし 童心のふるさとありて郭公啼く 夏むかふ嶽の雲間につばくらめ 金魚玉たましひに触れ忘らるる 夕映えて八っ手がくりに紅カンナ 山颪しする隠棲の白葵 世に古るは一峡一寺※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]のこゑ ひなげしのにこ毛の蕾花に添ひ 白昼の畝間くらみて穂だつ麦    [#中見出し]秋[#中見出し終わり] 百姓の愚をさげすみて秋新た 日も月も遠き山系秋の雪 深山の風にうつろふ既望かな 秋山に老いさらぼひて一好句 山深く生きながらふる月の秋 [#ここから2字下げ]気管支炎にて東京滞在旬日[#ここで字下げ終わり] 秋冷や咳きつかれたる夜の汗 秋風やおのれに近き月の貌 高原の月に夜雲の真っ平 由比ヶ浜古濤声に雁わたる 高潮の雁行月にしづみけり 高原の幾秋霜や婦の家路 野にむれて聾ひたる農夫鰯雲 生涯にいちどの旅程秋の霜 秋冷のまなじりにあるみだれ髪 冷やかに大富士形をたもつのみ   山中渓畔の一廬 夜を擁きて爽気かぐろく鳴る瀬かな 渓流に雲の白みて胡桃熟る 無花果に日輪青き児の戯び 流燈をしたひて沖の船にあり 流燈の消えんと火影うるほひて 菊の奸邪悪もつとも美しく [#ここから2字下げ]北海道羈旅修道院の思ひ出[#ここで字下げ終わり] 衣にまとふ秋のかげろふ尼の耕 秋耕す尼に寂光噴火湾 秋耕の尼に追はるる思ひにて 仇敵を見舞ふみさだめ燈籠もゆ 苹果摂るむつましさ見よ婦の二身 またがりて野に追ふ牛に帰燕かな 秋燕の雲間をかけてのこるあり 秋の※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]絶えんと嶽の猛々し ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]いざるほとりの塘の虫なごり 虹たちて草山赫っと颱風過 原爆忌人は孤ならず地に祈る 深山の日のはらむるる秋の空    [#中見出し]冬[#中見出し終わり] 命終ふものに詩もなく冬来る 年送るこゝろにおもふ母の愛 鐘が鳴る除夜の後悔なにもなし 冬の葬いちいち地をふみゆけり 現実の相を真冬の水かゞみ 墓の前月日ながれて寒詣 田を截つて大地真冬の鮮らしき 寒きはみ訂す術なき山容 中年の軽侮にたふる冬鏡 強き冬陸にあらがふ海の面 郊外の家居に冬めく山野あり 山に棲む六十余年冬の燭 たわたわと月光出湯に冬の嘆き やまぐにの河に鳶舞ふ冬日和 冬日しむ地の蕭條をふみゆけり 日ひと日と命になづむ冬日かな 寒波きぬ信濃へつゞく山河澄み 世に古るは冬日くまなき嶽のみか 冬大地汎くうるほひ人ら棲む 冬水の意にしたがひて行人ら 山中の巌うるほひて初しぐれ 息白し愛語こゝろにこもりゐて 聖雄と黌《くわう》の木椅子に冬日向 冬ぬくく富士に鳶啼く山中湖 なにか獲て裏富士めざす青鷹《もろがへり》 冬の閑ボタン一つのおつるにも 月光のしみる家郷の冬の霧 白樺を透く夕光に冬の巌 深空より耕女をのぞく冬の鳶 霜晴れて嶺の蟇石に渓こだま 雪山を蔽ふまひるの黝き海 漆黒の夜を湧きたちて飛雪舞ふ 雪積みて夜の風月にはしりけり 雪山の夕日の斜面近くゆく   廬後の渓流狐川 山くだる瀬のさ霧にもみゆきにも 雪に辞す人に手燭をこゝろより 雪ふるや渓こだまする雑木原   上京偶々深夜に入る 銀座裏まひたつ湯気に夜の雪 雪晴れて雷の一線機影ゆく 雪の上人心およそ頼りがたし 墓参する篤きおもひに寒ゆるぶ 冬の風人生誤算なからんや   南ア白根ヶ嶽 雲のまに新雪きそふ巓三つ 雪邸の凍美をきざす朝あかね 銀壺の花くれなゐに雪降る日 雪山の幾襞遠く曇りなし 雪林の猟夫を近み月上る   身延山 久遠寺の夜をさしまねく雪の鐘 雪山に照る日はなれて往きにけり 雪の果征旅の二児は記憶のみ 天の嶺地表と別に雪のこる 郷の水雪後の虹の淡々し 雪原の夜気をしりへに橇の燈 人生は素直に墓所の雪をふむ 年古く棲む冬山の巌も知己 冬の嶽地の人文の歳月に 夜のゆめを忘れはてたる冬の嶽 山塊の日あたりながら霜気満つ 初霜や人馬に消ゆる谷の径   朝々の礼拝 亡き母に子に極寒の香けむり 山くだる瀬岩に禽や寒ゆるぶ [#改ページ]   [#大見出し]昭和三十年[#大見出し終わり]    [#中見出し]春[#中見出し終わり] 高台林梢遠み年新た 初年の夜情あらたに几《おしまづき》 初湯出し色香を忘じ得ざりけり 月夜にてわが影仄か飾りの扉 山中の雪の玉屋かゞみ餅 歳々や湯気になごみて竈飾り 善鄰の意にかゝはらず手鞠唄 冴返る深山住ひの四方の色 棧道の蘭に斜陽や雪のこる 春の虹世紀のゆめのかなたにて 春ぬくく旋風うつろふ桑畑 砲音の樹海をわたる雪解富士 山川の傍の春耕日もすがら 夜の野路人とまぎらふ春嵐 雲ふみて高原の杣春を趁ふ 春の日にやまびこす嶺を低く瞰る 空を牽てすゑひろがりに春の川 深山の春めくいろに月の雲   姫路城 春の城街に浮浪はゆるされず 春驟雨広場のユッカ鈴あをむ 明暗の田子のくらしや春の霜 焼野石熱人をさるごとく冷ゆ 春の霜日りんにみるおもてうら 春あつく地も吹く風に麦の花 風光る喬樹のそよぎ一枝づつ 一つ温泉に四方の白雲山ざくら 聖鐘にカラタチ夜情花ほのか 花咲きて照り葉のかすむ紅椿 時化の中もつとも鮮らた落椿 奥身延癩院の見ゆ山つばき 鵯の啼くこゑの呪詛かもおちつばき 山寺をちかみの藪の紅つばき   大黒坂所見 竹山に花ざかりなる紅椿 濤ごゑも※[#「區+鳥」、第3水準1-94-69]も河口の春暮るる 銀行の娘を二三愛で老の春    [#中見出し]夏[#中見出し終わり] 万緑に滲みがたくしてわかかへで 鉄門にこの世の怡楽若かへで 桐落花主婦の喫煙九時過ぐる 山水のはしる母郷の夏来る   動物園 蠅を※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]む豹に檻狭き夏来る 林間に宙の眼をみる青葉時 槻たかく夏めく葉かげ幹にゆる 野の夏日世俗を嗤ひがたくゆく 雲四方に夏大いなる甲斐に棲む 滴りて地の表情明けいそぐ 軒菖蒲うす目の月の行方あり 山塊を雲の間にして夏つばめ 炎天や地に立命のわれと影 街炎夏地階の映画世心に   戦後感懐 夏かすみ野に十年の道通ず 夏帽子海浜を眼に真っ平 月光の夜半をさだむる青葉木菟 遅月の邸樹にさして青葉木菟 金魚玉全一日の不安なし 炎暑去る沃土を愛す百姓ら 壺抱きて杜出る美婦や夏を趁ふ 花栗にたちまさりたる夜の霧 聖杯にたゞよへる血と白牡丹   郷土笛吹川堤上にて 雲四方に曾根丘陵の麦の秋    [#中見出し]秋[#中見出し終わり] 秋に入る白きベッドに老の萎え 山聖し地は遍照の秋日影 青春の去る秋情に夜の花卉 [#ここから2字下げ]夜々のめざめにノートをそなふ[#ここで字下げ終わり] 秋の燭強し死おもふ枕上 高原の爽気身にしむ登山隊 炎昼のうつろふ峡の秋を見ぬ 潮騒の墓原を匐ふごとき秋 秋光や聾者しばらく座にみゆる 薬局の午後の一瞥秋暑盈つ 人しれず峡の濁流秋の午後 雀躍りに秋の百姓肥になふ 植物のたをやかさ去り秋日澄む 船を寄す湖畔の樹相霧がかる 万緑の秋暑の翳をまのあたり 秋暑し人を海辺に葬ひて 月夜霧咽ぶばかりに郷土愛 秋冷の虹鱒とよぶ影仄か 秋冷の畔うるほひて渓こだま 山行きて秋を幽かなはたゝ神 花火見る袖のうるほふ園の闇 爽かに日の漲りて花卉の空 高西風に高原九月|衷甸《ばしや》を駆る 露の月子の命日の地をふむ 日を遠く旅情はなれて秋の滝 地に人の就く日勁くて秋の霜 痩せし身の眼の生きるのみ秋の霜 奥山の湯治帰りの月にあふ 田子葬る日の秋風に馬蹄音 風烈し日を全貌に秋の嶽 秋峰のはなれて猛き南北 恒雪を擁くといへども秋の嶽   庭前即興 秋園に頑たる稚児のほゝゑまし 濁流に秋はほたるの箭《や》より迅し 暁の虫文業ともに寂かなる うす影をまとうておつる秋の※[#「虫+單」、第3水準1-91-66] ひぐらしのこゑのつまづく午後三時 秋※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]のこゑ尻しみる山郷土 惨として飛翔かたむく蟷螂かな 虫しぐれ時世のながれ停るなし 夕日照雨簗瀬にそうて虫の鳴く 鶲ゐて日の没る風にうめもどき 洞然と白昼の庭うめもどき 秋※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]のかたよりそめし鳴瀬かな 滝つぼの霧がくりとぶ秋燕 つゆくさに善行を抒す郷ごころ 放埓にしらつゆあそぶ青すゝき [#ここから2字下げ]秋田より新潟への車中 二句[#ここで字下げ終わり] 象潟の昼うすくらき秋の雨 一色の紙のごとくに秋の濤 露明き小野の饗宴曼珠沙華 伶人に香をまとひたる夜の菊 爽かにたちどまりたる山泉 [#ここから2字下げ]京の詩仙堂にて 二句[#ここで字下げ終わり] 緑蔭のふかき雨気に添水鳴る 添水鳴る京かすむ日の詩仙堂 高原の霧にしづみて炉火の紅   富士八合目 死火山の影泛く雲にいなびかり    [#中見出し]冬[#中見出し終わり] 冬来る地の福音にこゝろ満ち 日常の医局玻璃戸に見ゆる冬 肉を購ふをり婦を厭ふ心冬 歓楽の灯を地にしきて冬星座 冬の摂理空のビードロ瑕瑾なし 鉄塔に暖冬汎き麦の畝 厳寒の日のはるかにて摩崖仏 寒燈に身を遠ざかる女人の香 冬燈脱衣一瞬光り鋭く 峡川の橋にかゝりて冬の音 世の不安冬ふむ音のマンホール 天日の徹る冬日の山泉 劫初より冬日うつろふ宙のみち 金輪際牛の笑はぬ冬日かな 凍ての中山雲のわが灯の一つ 短日の奢侈をさげすみ吝嗇も 泊船に冬日とゞまる術《すべ》のなし 歳月をたのしまざりき冬の山 嶺を遠み光りみだるる冬嵐 寒の闇匂ふばかりに更けにけり 心徹り気の昂りたる冬ごもり 凍風にひらめく路鋲ふみわたる 凍てし土婢の減り下駄にこゝろとむ 楽聖の凍つ夜情知るよしもなし 日の光りつきさゝる野路霜ながれ [#ここから2字下げ]羽田空港に在米五十年の老を迎ふ[#ここで字下げ終わり] 肉親をまつ空港の霜日和 こがらしの波止人埋むところなし 寒星や地に物故せし聖者の数 愁ふるとなくたのしまず枯れすゝき 冬の空こゝろのとげをかくし得ず 風つよく野の明るさは寒の罰 銃音に湖空めぐる夜明け鴨 空山に斜陽のふかく雪のこる 雪嶺に日常のわが書の新た たのもしき人を薄暮の雪に訪ふ 風雪を老ゆるこゝろに卓の燭 むさゝびに降りやむ雪のなほ散れる ふみわたる墓畔の雪の白極み 雪渓の水とゞまらず総落葉 夜雪やむ闃たる天に年移る 雪の降る幹の林立ゆくかぎり 深山の屋に馬飼ふ雪日和 月の出を夜嵐となる雪の原 降りやみて雪山鎮む月あかり [#ここから2字下げ]S―卒然として逝去[#ここで字下げ終わり] 雪を被て服喪のこゝろ聖山河 獣屋に冬日束の間爪かけて 生涯をかけて色足袋すくはれず 寒日の西空あかり思惟ふかく 木原の日くらげのごとく凍の空 山泉冬日くまなくさしにけり 北風高し尼僧の穿きて木靴鳴る   一つの幻想 寝しづみて老が火を吹く寒の闇 冬水のなめらかにして日に抗す 冬川に出て何を見る人の妻 炉をあけて深山住ひの午下り あしたより風少しある炉のけむり 手弱女の高臀にして十二月 [#ここから2字下げ]秋田より日本海沿ひに新潟への車中[#ここで字下げ終わり] 象潟の弓張月や曇れども 象潟の冬百姓の顔が好き 渓の樹に凍み透る日の昇るなり [#改ページ]    [#大見出し]後 記[#大見出し終わり]  創元社で「雪峡」を出したのが昭和二十六年末であるから、その時から最早五ケ年の月日が経過している。「山廬集」をはじめとして「霊芝」「山響集」「白嶽」「春蘭」「心像」に次いで「雪峡」と、第七句集をかぞえてこの「家郷の霧」となるわけであるが、この他に「蛇笏俳句選集」とか「現代俳句新選」とかいうようなものが三四種あるけれども、それらは上記の句集に盛られた作品と重複するものが散見せられるので正しくは「雪峡」に次ぐ第八句集とせられるべきである。  書名「家郷の霧」はわが愛着によるところのものである。   千九百五十六年早春            峡中山廬に於て [#地付き]著 者 底本:「飯田蛇笏集成 第三巻」角川書店    1995(平成7)年1月10日初版発行 底本の親本:「家郷の霧」角川書店    1956(昭和31)年11月発行 著者:飯田蛇笏(1885(明治18)年4月26日〜1962(昭和37)年10月3日) ※底本において、序文は存在しない。 入力:小川春休