空華句集 斎藤空華 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)御燈《みあかし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)南風|薔薇《さうび》ゆすれり [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)※[#ローマ数字1、1-13-21] -------------------------------------------------------  昭和十六年 [#ここから2字下げ] 犬吠岬 [#ここで字下げ終わり] 白日に国尽くる所草枯れぬ 海苔乾して国の端寒き怒濤かな 千鳥かも昼の怒濤に来て鳴ける 月は寒く日は白々と低くなる うらゝなる筑波を見しが夜の雨 [#ここから2字下げ] 仙丈小屋 [#ここで字下げ終わり] 天に近く短夜の炉を焚く一人 夏に病みて竹枯れやまぬ音に臥す 竹落葉風さやに朝は病癒えぬ 春蝉の死ぬべき松は花をこぼす 松落葉掌の月光は冷ゆるなく 松落葉かすかなるかな真夜も散る 熱出でゝ母には百合のことのみ云ふ 黎明を芙蓉の雨の音にみだれ 野のしづけさ尾花は絮となることも こう/\と秋風にある日の遠さ  昭和十七年 霜木々にいたる明るさ枯れやまぬ 松は高し暮天を移る鴨の声 出づるより日は匂ふもの落葉季は 鳰啼けばゆふぐれ水のみだれのみ 雨すでにやむまじき雨の夕明り 行春や砂には松より生ふものなく 灯のとゞくかぎり降りしく薔薇の雨 松や芽立ち明けたるまゝの汐曇 雨脚の干潟に見えて避暑期去る 霜踏むやいのちしづかなりこしかたは  昭和十八年 [#ここから2字下げ] 九十九里浜 [#ここで字下げ終わり] 蒲公英や荒磯はつねに根なし雲 菊咲いて雨は夜に降るならひかな  昭和十九年 [#ここから2字下げ] 西陲行 [#ここで字下げ終わり] 関ヶ原夜も草枯るゝ薄明り [#ここから2字下げ] 阿蘇 [#ここで字下げ終わり] 枯野吹く風やがてかの雲を吹く [#ここから2字下げ] 城山 [#ここで字下げ終わり] むざ/\と七百の墓冬日影  昭和二十一年 かりそめの風に葉ごもる実梅かな [#ここから2字下げ] 十四日荼毘に付す [#ここで字下げ終わり] 露けさやいのちの果の火は浄ら 春に似てつく/″\枯るゝ蘆のあり 枯れにけり合歓の葉眠り続くまゝ 秋刀魚喰ひ悲しみなきに似たりけり  昭和二十二年 落葉はげし孤高のこゝろさびし過ぐ 霜いたる竹に節あり松になし 北空のみが透きてしぐれむとするなり [#ここから2字下げ] 霊前 [#ここで字下げ終わり] 露の秋生き身のわれのなまぐさく 落葉尽き幹のみの高さ残りけり 河豚食ひしことなど熱の低き日は 蓑虫や思へば無駄なことばかり 雪茫々生死さだめなく降れり 夜の落花月をこぼるゝうすみどり 炎天やいくたび人の死に逢ひし 蟾つぶやくときが真実か 啄木忌悲しきまでに遠き雲 行く雲も帰雁の声も胸の上 春昼やたま/\笑ひ涙出づ 胸に水湧く音す春昼闌けにけり 桐咲くと夜空も蒼さ失はず 秋風やたま/\坐り膝寒く 秋晴の山畑今日は人の居り  昭和二十三年 炎天や麹町なし水巴なし 雲のみか秋天遠きものばかり 夜の海は銀河がそゝぐ水湛ふ [#ここから2字下げ] 曲水社の東京復帰を聞くに [#ここで字下げ終わり] 菊さえや都わすれの名に咲きぬ あるときは寒燈を神のごとまぶしむ 大寒の星ことごとく極を指す 寒の日の西日となりて射して来ぬ 立春や人太陽系に住めり 磁針つねに北を示せり枯木星 悴みてつひに衆愚のひとりなり その音に鞭うたれたり枯木の音 早春や誰にか明日の新しき 濡るゝにはとぼしき坂の枯木なり 咳やつと胸におさまり雪も積みぬ 桐の花落ちつぎ居しや熱の中 片陰のさらに一隅なしにけり 十薬のまだ一つ花十歪む 十薬の今日詠はねば悔のこす かへりみてわれ十薬の句をもたず 豆腐佳し今宵卯月の月ありや 豆腐佳しこんこんと緑湧く五月 痰の深さ発きて蠅の跳梁す 万緑や火を焚けばなにか寒さあり 白粥や雨風の中蕗煮ゆる 汝が信ずキリストの麦黄熟す 声宇宙蝉木にゐるはたしかなれど 短夜のつきつめし顔をゆるめ寝る 炎天を瞶むや刻のうしろより 一夏天たゞに咳ひゞかせしのみ 蚊の声のげにげに執念なりけり 葛水や光陰ゆらぎつゝ過ぐる こき/\と骨息づけり涼しきか 胸の上炎天までを一樹なし 雷の下恃むべくして何掴む 蠅打つも必死の事となりにけり 金欲しや舌ざら/\と西日中 西日惨空のどん底照るなりや 酷暑燦然たれば死するも我が勝利 日盛りや褥を背後退路なし 葛ざくら水巴忌近くなりにけり こは大事昼寝して句を忘れたり 殺意にも似し炎天の気貴さよ [#ここから2字下げ] 病室の窓より望見の崖の事、 麻風氏の言ひ給ふに我が視界の他なれば [#ここで字下げ終わり] 炎天のその崖見るが一大事 残暑光我は舎利もて荘厳す 残暑光ひとの病ひを黄に染めつ 炎昼の病ひふかみに落ちにけり 魂祭人間の死は季節なく 咳ひようとひようと乗つたり秋の風 蓑虫や湿布に胸をなぐさむる 野分に咳き涙に似たるものこぼす 転生を信ずるなれば鹿などよし  昭和二十四年 芭蕉忌の一日足のこごえをり 大榾の骨ものこさず焚かれけり いぶり炭いぶらせてをくほかなきか 糞まりし汗拭けば今日の仕事遂げぬ 金もらふ黴より古き友を持ち 火を焚けば枯野の風のねらひけり 春燈へ麻薬たちまち奈落なす せめてもの四月馬鹿にてねむり欲し 煉炭の火の絶壁を風のぼる [#改ページ] 寝覚の章 [#ここから2字下げ]  寝覚の章は、現在の我が傾向の全貌をつくしてゐる。病骨残骸の吟、贏痩弱体にして、肺癆の影響また気息に乏しい。唯僅かに諦念の裡、熟視冷徹なると望んだが、果して奈何なものか。  境涯すでに定まり、余生また尠い。今後風態の変貌も恐らくはあるまい。さればこの二百五十句を以て我が生涯の作と為す。創作中常に「夜の更くる事眼に見へて心せはしき」の思ひあり、若しわづかに希ふ処「自らの気息に従ひ音韻充足、創造の妙を渾沌裡に把して描写含蓄す」る万分の一をも遂げ、或は志向し得たるものあらば至幸である(二四、九、一二) [#ここで字下げ終わり] 死ぬる馬鹿生きてゐる馬鹿四月馬鹿 筆投げてしまへば春昼虚脱せり 春※[#「風にょう+(火/(火+火))」、第3水準1-94-8]身をどり越ゆる病躯の上 仰臥さびし天はおほかた帰雁など 春暁のもの言ふを咳に先じられ 朧月ゆがみゆがめり咳堪ふる 必死裡に蠅への苦患はじまれり 二度搏つも鉄甲の蠅つぶれざる 薄暑夜はさむみ寝姿落ちつかず 咳止みて万緑滾りゐる寝覚め 真夜蠅の天井蹴つて我へ来ぬ 青嵐沐浴となす病躯なり 蠅打つて掌熱きまで痛む 桐の花五月の抒情構図せり 黴燃えて病者のみ見るけむりかな 胸の上を夏天のもなかと誰も信ず 蚊の声の一光陰をけみしたり 麦粥を食ふやいのちの精一杯 蟻地獄飼ふもいのちの寂寥や 痰増えてやふやく中夏旦半ば わが逢ひしどの屍より夏痩せて 癆咳と云へば蠧より月日古り 短夜のしばらく更くる母寝息 短夜や時の奈落を覚めて過ぐ 五個空洞雷後の大気残響す 短夜のあさきゆめみし寝冷かな [#ここから2字下げ] 無声慟哭 [#ここで字下げ終わり] 母のみは肉声に呼べ油照り 夕焼の栄光の中胸汗ばむ 大夕焼瞑れば眼窩なほ陥つや 大酷暑張りつめ死への隙間なし 熱の膚遠く梅干すが恋はれけり おもひわく微笑しづかに酷暑の辺 汗滂沱たるかぎり気力恃むべし 夏衾陥ちたるは腰の力かな 一夜には一夜のねむり露涼し 朝曇梅干の核に執着し 眉宇冷えて昼寝より蘇りけり 顔痺れ昼寝終りぬ風の中 透るまで指洗ひゐる土用 白桃に触れたる指を愛しみをり 炎天の未来の刻を地に経る 七月尽星の赤光士気盈つる 海老寝して極暑の極を越えにけり あけくれや独語に夏も深く過ぎ 夏深く風樹と寝覚をともにせり 水底を汲み葛水をつくらむか 初秋の小鰺の味も忌のこゝろ 光陰や深沈と水巴忌前後過ぐ 冷えそめて旦暮したしき鳶の笛 たまり来る夜雲葡萄は胃にあまし 秋月光昼夜のわかれ濃くなりぬ 秋風や抱き起されし腕の中 こほろぎに残りし生《しよう》の夜を更かす [#ここから2字下げ] 波郷先生より短冊を賜ふ、恰もキテイ颱風去りし後の豪雨の裡に届きしに [#ここで字下げ終わり] 颱風の中来し文字や息づけり 身近きは響き野分の遠谺 [#ここから2字下げ] 終一章また遺語にも似たり [#ここで字下げ終わり] 赫々の九月惨暑とも云ふべき [#改ページ] 拾遺の章 (十月※[#「巾+厨」、第4水準2-8-91]) [#ここから2字下げ]  この秋を終《つい》のいのちとおぼえ、寝覚五章もて句作を鎖しのち、ふたゝび折に触れなほ句のなれるをそのまゝにかきとゞむるのみを。   十月※[#「巾+厨」、第4水準2-8-91]  病めば仲秋十月なほ昼※[#「巾+厨」、第4水準2-8-91]にこもりてたゞめつむりて日を過すを執りて母が題せる。   この句帖は既に一応生涯の句作と為せるを終りしのちなほ妄執の思ひの句となるを書きとゞめて拾遺の章となせる。 [#ここで字下げ終わり] 白露の午後にわたれり熱しづか 熱の身の露に泛びてたゞよふや 露の上月光日光とかはるかな 露の上にあたらしき露ながれけり 月光にかゞやく顔をたまひけり 息ふかくしだいに秋の風聞けり とき過ぎてゆくと思ふのみ秋の風 寝返りのかなはぬ肩に月ゆるし あるひは思ふ天の川底砂照ると 秋風や我が咳の中に音終る 咳の顔月にそむけむ方やなし 我が喘ぎに母も息そふ秋風や 秋風や慍りかくすには胸薄し 秋風に骨を吹かるゝ慍りかな 月光に面規され眠り得ず 天の川一途の果に来て仰ぐ 月明や鼻梁片面を陰かくす 鵙聞けばコーヒーの香の昔かな 朝露の一粒のごと日浴ぶ母 こほろぎや身の冷え土に近き思ひ 髭ゆする馬追の自信われになし 末枯れて新らたなる声野に喚べり 末枯れの顔燃ゆ病ひ変あるや 秋の風かざす十指に吹きわかる 月光の真向ふ落ちて顔さらす 露円光おん母の身にあまりけり  柞 はゝそ [#ここから2字下げ] 十月※[#「巾+厨」、第4水準2-8-91]にあまれる句屑を母のまえに [#ここで字下げ終わり] こほろぎや継ぐべき息を胸ごもり 鵙声を急告げゐると聞くや誰 [#ここから2字下げ] 「咳暑し茅舎小便又漏らす」の句あり、われまた咳嗽の激しさ、呼吸の困難の折など尿路おのづから失禁して尿を漏らすに堪ふ能はざれば [#ここで字下げ終わり] 露の茅舎と生理の秘密同じうし [#ここから2字下げ] 波郷氏より懇書近影を給ふ その清瀬日常を思ひて [#ここで字下げ終わり] 露紅葉屍が下通る門なりや [#ここから2字下げ] 療病第四歳に入る昨立冬 [#ここで字下げ終わり] 咳き尽し生れ来るものを俟ちにけり [#ここから2字下げ] 十一月廿三日夜仮死状態となり廿四日朝蘇生 [#ここで字下げ終わり] 笹鳴を聞き得て生がありにけり 一切の先づ笹鳴にあひにけり 笹鳴と信じ得て母の顔がありぬ [#ここから2字下げ] 我病ひ危しとて姉の尋ね来れるに小康のあれば [#ここで字下げ終わり] 十一月寝刻まで茶湯たぎらせよ 底本:「現代俳句大系 第八巻」角川書店    1972(昭和47)年11月10日初版発行 底本の親本:「空華句集」曲水社    1950(昭和25)年7月5日発行 ※大谷碧雲居、石田波郷の両氏による序文及び後記は省略した。 入力:小川春休 2009年5月12日公開