これまでの法話
2012.5.25
園長の月曜礼拝の法話
降誕会(ごうたんえ)〜しんらんさまのお誕生日をお祝いします〜
『悪い人こそ救われる?!』
5月21日はしんらんさまのお誕生日です。しんらんさまは今から800年前に生きられた方です。しんらんさまはお釈迦さまの教えを勉強して修行して、その教えを私たちに分かりやすく教えてくれました。では、どんな教えだったのでしょう。今日はしんらんさまの教えてくれたことをお話しします。
しんらんさまは「悪い人こそ救われて、ほとけさまになっていく。」と言われました。ええっ?悪い人こそ?なんですか、それは。私たちは悪いことをしないように、良い人間になるように教えてもらっているし、頑張っているのにね。
『悪いことを全くしない、ことはできないことに気付く』
しんらんさまは、悪い人、とはどんな人か知ることが大切なのですと教えてくれました。生き物を殺さない、他の物を盗らない、悪口を言わない、嘘をつかない・・・、これらの悪いことを全くしない、したことない、っていう人はいませんね。心の中で思っても、それは悪いことですよ。
さて、この中で生き物を殺したことのない人はいますか。え、全員??。ふふふ、それはいいですね。では、聞きます。私たちは毎日ご飯を食べますね。ご飯は何でできていますか。お米、小麦、野菜、肉、魚、みんな命があって生きていたんですよ。それを殺して、ご飯を食べているのです。私たちは他の命をとらずには、生きていけないのです。
もう一度聞きます。この中で生き物を殺したことのない人はいますか。手を上げている人は、ご飯を食べたことがありませんか。
『私は悪い人だった、と気付いたら、変わっていく』
このように、私たちは殺生をせずには生きられません。そのほかの悪いこともせずには生きられません。そんな自分だということに気付いたら、私たちはもっと謙虚に、感謝の中で生きていくようになるのでしょう。お互いに許してあげて、認めてあげて良いのです。しんらんさまはそのことを教えてくれました。
2012.2.25
園長先生の月曜礼拝の法話
勝ち負けを超える世界 〜お相撲大会より〜
白百合保育園のみんなは、お相撲大会でよく頑張りました。みんな、お相撲するんだから、勝つぞ!って思って頑張ったんですね。さて、お相撲ですから、勝った人がいれば、負けた人もいます。一人ではお相撲はできません。では、負けたとき、どう思いましたか。悔しかったですね。なぜ悔しかったか分かりますか。それはね、悔しかったのは、みんなが勝ちたいと思って一生懸命頑張ったからです。負けて、悔しくて涙が出るのは、よく頑張ったからです。でも、負けたとき、“泣かなくて良いよ”と先生に言ってもらいました。それはどうしてでしょう。
みんなは、お相撲をするとき、勝つぞ、と思って頑張りました。それでは、相手の人はどうだったでしょうか。勝たなくてもいいや、という人ではないですね。お互いに勝ちたいと思って頑張った人同士です。勝ちたいと思って頑張っても、思い通りにならなくて、負けてしまいました。同じように勝ちたいと思い頑張った相手がいるから、負けたんです。負けたからだめだった、と思わなくてもいいのです。そして、勝った人も、勝ったから良かった、うれしい、だけではないのです。同じように勝ちたいと思って頑張った人同士だからこそ、相手の気持ちを大切にできるようになるし、お互い頑張ったことを知って認め合うことができるようになります。そこは、勝てばいい、負けたらだめ、という自分だけの世界ではありません。
ほとけさまの教えとは、縁起の教えです。縁起とは、全てのものはつながりあっていて、お互いに影響しながらそこにある、ということです。お相撲大会でも、お相撲ができるのは、同じように勝ちたいと思う相手がいるからだし、手伝ってくれたり応援してくれたりする人がいるからです。
みんなが勝ち負けを超えた世界を知り、相手のことを大切にできる人になってほしいと願っているから、先生たちは“負けたときも、泣かなくて良いよ”と言ってくれるのです。
2011.8.25
園長先生の月曜礼拝の法話
食後の言葉
『尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
おかげで、ごちそうさまでした。』
保育園のみなさんは、ご飯やおやつを食べる前にはみんなで食前の言葉を言いますね。そして、食べ終わったらまたみんなで食後の言葉を言いますね。今日は食後の言葉のお話をします。
みんなは、たくさんの動物や植物の命がいつも食べているご飯になっていることを知っていますね。そして、たくさんの人がそれらの命をみんなが食べられるご飯にしてくれることも知っていますね。(食前の言葉のお話をしましたね。)みんなが元気になりますように、大きくなりますように、と多くの人の気持ちが込められています。
あなたは、あなたが食べるご飯のためにたくさんの命があるとなったら、どう思いますか。『当たり前』ですか。『ごめんなさい』ですか。あなたのために願いを込めていろんな人ががんばってくれたら、、どうしますか。それは『当たり前』ですか。それとも『ありがとう』ですか。
・・・普通はごめんなさい、ありがとう、ってなりますね。だって、そこで当たり前、って言う人と、仲良くしたいと思いますか。ありがとう、はみんなが仲良くなる素敵な言葉ですからね。
さて、食後の言葉はそれだけでは終わりません。わたしのために頑張ってくれた人がいる、ご飯になってくれた命がある、だったら、わたしはお返しをするためにも『ありがとう』といつも思える人になっていくことが大切なのです。
『御恩報謝につとめます』とは、多くの命とみなさまのおかげに対して「ごめんなさい、そしてありがとう」といつもいつも思える人間になっていきます、ということです。
2011.8.3
園長先生の月曜礼拝の法話
今月は園児への法話がなかったので・・・、仏教について簡単に解説します。
仏教とは では、仏とは、
仏の教え 例えて言うなら、
仏になる教え です。 宇宙のはたらき
大自然の力 といえます。
この世は、私が中心、ではないのです。いろんな人やいろんなものが繋がりあって関わりあって、今、ここに私がいるのです。これらを
『諸行無常(物事は常に変化し続ける)』
『諸法無我(ものごとは全てつながり関わりあっている)』
といいます。
でも私たちは、ついつい自分の心配事ばかり考えてしまいます。自分のことや、自分の家族のことや、自分の仕事のことなど、ついついほかの人やほかのものの立場を忘れてしまいます。
自分は良い人になろう、と思うのも、自分中心なのですよ。困っている人に親切にしてあげよう、ほかの人から親切にしてもらったことをありがたいと思うようにしよう、これらも全て私(自分)の価値観による考え方です。
もちろん、お互い困ったときは助け合いですよね。他人から親切にしてもらったら感謝の気持ちを持つべきです。でもそこに、『だから自分はいい人である』という思いがでてこないよう常に気を付けないといけません、と仏教では教えるのです。
私(園長)は、先日東北のボランティアセンターを訪ねる機会があったのですが、そこにあった言葉を例として紹介します。(津波で倒壊した家屋の写真が貼ってあって)
「あなたはこれを倒壊家屋と呼びますか。」
「わたしにとって、これは帰るべき家なのです。」
写真は保育室に貼ってありますから、関心を持たれた方はご覧ください。
子どもたちには、津波で家が壊れた、かわいそう、ではなく、そこに住んでいた人はどのような思いでいるのだろう、と心を寄せられる人間になっていってほしいと願い、月曜礼拝を行っています。
2011.5.25
食前の言葉、どんな意味?
『多くのいのちとみなさまのおかげにより、このご馳走を恵まれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。』
白百合保育園のみなさんはお昼ご飯の時と、おやつの時、食前の言葉、食後の言葉を言いますね。今日はその言葉のお話をします。
みんなはご飯のとき何を食べますか。お肉、お魚、野菜、ご飯、パン、他にもいろいろ食べますね。お肉は、生きているニワトリや牛や豚を押さえつけて、首を切って、血を抜き取って、体を切り分けて、そしてやっとみんなが食べるお肉になるんですよ。魚だって同じです。命があって生きていたのに、みんなのご飯になります。みどり組のみんなは保育園の畑にお野菜を植えましたね。お野菜は植えたときと同じ大きさですか。違いますね。変わってきていますね。みんなが毎日お水をやって、お日様の光があって、空気があって(お野菜も息をするんですよ)、大きくなっていきます。お野菜も生きているんですよ。
みんなは、ご飯を食べるたびに、多くのいのちを食べているんです。多くのいのちをもらって、生きていくんですよ。みんなはどう思いますか。「ご飯を食べるのは当たり前。おいしくなかったら食べたくない。」ですか。それとも「僕のために、私のために、ご飯になってくれてありがとう。」ですか。ご飯を残したときには「おいしくないから、おなかいっぱいだから、食べなくてもいい。」ですか。それとも「たくさんのいのちがご飯になってくれたのに、どうしても食べられなくてごめんなさい。」ですか。
自分のことしか考えてなかったら(自分の思うことが正しいと考えていたら)、食べたくないから食べない、残してもいい、になりますよ。
食前の言葉は、ご飯のことを思って、ごめんなさい、そして、ありがとう、の気持ちを言う言葉なのですね。
2011.1.20
報恩講の法話『あなたに還る家はありますか』〜富田富士也先生のお話より〜
『甘える勇気』とは『人を信じる勇気』
甘えるって、勇気なんですよ。例えば私があなたに声をかけるとき、あなたに無視されるかもしれない、不審がられるかもしれない、目を背けられるかもしれない、そんなリスクを抱えながらも、あなたが返事をしてくれることを信じて、捨て身で飛び込んでいくんです。私があなたに声をかけたとき、返事してもらえたなら、それは捨て身の勇気を受け入れてくれた、うれしいことですね。
『自分と向き合う』
明日、運動会の子どもが「明日は運動会、緊張してドキドキする・・・」。そんなときあなたは何と言いますか。「なんだ、ドキドキするなんて。明日が本番なのに、もっとしっかりせい。」なんて言ってはだめですよ。ドキドキして緊張している子は、明日運動会でがんばるという自分にきちんと向き合っているんです。
『あなたに還る家はありますか』
保育園のお迎えのとき、子どもが『おかあさ〜ん(おとうさ〜ん)』と飛びついてくるのは、あなたが子どもさんの“還る家”になっているからです。子どもさんにとって安心して戻って来れる“家(居場所・安心できる場)”になっているんですね。そして人は、安心して戻って来れる家があるからこそ、また飛び立っていけるんですね。
人は、この世で成果を出すために、また評価を受けるために、生まれてきたのではありません。
あなたにも、還る家はありますか。
2010年10月
園長先生の月曜礼拝の法話
ツェねずみ 〜宮沢賢治の童話より〜
ある古い家の真っ暗な天井裏に、「ツェ」という名前のねずみが住んでいました。ある日ツェねずみが天井裏を歩いていると、向こうからいたちが走ってきました。いたちはツェねずみに言いました。
「向こうに金平糖があるから、食べに行くといいよ。」
ツェねずみは一目散に金平糖のところまで行きました。ところがそこにはたくさんの蟻の兵隊がいて、ツェねずみは追い払われてしまいました。ツェねずみはいたちのところに行って言いました。
「私のような弱いものをだますなんてひどいじゃないか。金平糖は蟻の兵隊が占領してい て、私は追い払われたよ。」
「それは残念、一足遅かったね。」
「そんなこと知らん。償っておくれ。償っておくれ。」
「ひとが親切に教えたのに、そんなことを言うなんて。」
いたちは怒りました。ツェねずみと口を利かなくなりました。
こんな具合でしたから、ツェねずみはだんだん嫌われて、誰も相手にしなくなりました。そこで仕方なしに、柱やちりとりやバケツと話をするようになりました。
あるとき柱が言いました。
「もうすぐ寒くなるから、柱の上にあるすずめの羽をとってくるといいよ。」
ツェねずみはなるほどと思い、取りに行きました。三度目に運んでいるとき、ツェねずみは転げ落ちてしまいました。柱は心配して言いました。
「怪我はないかい。」
ツェねずみは「ひどいじゃないかい、私のような弱いものをこんな目に合わすなんて。」
「ごめんなさい。」
「ごめんじゃないよ。償っておくれ。償っておくれ。」
「そんなに言われても。」
柱は泣き出しました。そしてツェねずみと口を利かなくなりました。
・・・さて、自分の不運や失敗を他人のせいにしているツェねずみ、このあと恐ろしい目にあっていきます。続きは童話を読んでくださいね。
2010年9月
★〜今日は寒い・・・、ほんとに?みんなが?〜
最近、急に暑さが和らぎ、というか、朝は肌寒く感じるようになりました。と、言ったところで、ちょっと聞いてみますが、みんな寒かった?寒くないと感じた人もいませんでしたか。私たちは、自分が思うようにしか、自分が感じるようにしか世界が見えません。自分が寒いときはみんなも寒いと思い、自分が暑いときはみんなも暑いと思うのが人間のあり様です。例えばほかの人が寒いと思っているか、ちょうどよいと思っているか、実際には何も知らないのではないですか。それなのに分かったつもりになっていることこそが、迷いなのです。私たちはどこまでいっても真実は分からないのです。
★じゃあ、どうすればいいの。
それは、「如是我聞」という、聞いていく世界です。『私はこのように聞きました』というとても謙虚な姿勢です。自分の思いをまじえることなく、そのままを聞いていく世界です。そうすると自分のことばかり考えていた自分の姿が見えてきます。聞けば聞くほど、自分中心の姿が見えてきます。お恥ずかしいですね。
★自分のありさまを知らされる
もし、「自分の思いは正しい、だから自分の主張することは正しい」という人が一人いたらどうなるでしょう。ほかの人はその人の言いなりにされてしまいませんか。
「自分が正しい」という人が二人いたらどうなるでしょう。・・・大ゲンカですね。
もしみんなお互いに「自分はどこまでいっても真実は分からない」と気付いていたらどうでしょう。主張して相手に勝つことより、自分のあり様に眼が向きます。そこにはもはや争いはありません。
『如是我聞』、今の時代の私たちに、大切なキーワードになると思います。
2010年7月
お薬の後ろの、たくさんのいのち
〜白百合保育園子育て支援講座より〜
『ほとけの子どもを育てます』。
白百合保育園の保育理念であり、保育目標の指針です。先日の子育て支援講座で『ほとけの子ども』について話をいただきました。
一つの薬が開発されるまで、平均10年という時間と、膨大な数の動物による生体実験が行われるということです。その開発現場に居続けるのは、医学、薬学の科学の世界にいながら、自分たちを支えている限りないほどの多くの『いのち』を考えずにはいられないし、それを日常使う多くの人に伝えずにはいられなくなる、ということでした。
薬に限らず、私たちが日常何気なく使っている全てのものは、多くの『いのち』によって支えられているものなのです。
一つ一つのものの背後にある、『多くのいのち』に気付き、そこに思いを馳せることで、私たちには思いやり、優しさが生まれることでしょう。
さらには、どんなときでも自分は一人ではない、多くの人、多くの命とつながっている、と気付くことができるようになれば、それは生きていく強さになっていくことでしょう。
これらの『いのちのつながり』に気付き、共感できるようになることが、『ほとけの願い』であり、『ほとけの(願いのかけられた)子どもを育てます』ということです。
『いのちのつながりへの共感』(ほとけの願い)があるということが自然と身についていく、そういう人間が育っていく場、という願いをもって白百合保育園では保育を行っています。
2010年2月
園長先生の月曜礼拝の法話
『かあちゃんだよ〜(とうちゃんだよ〜)』
〜ぼくにそう言ってくれるのは世界中でかあちゃん(とうちゃん)だけだよ〜
みんなは朝保育園に来て、夕方お家に帰りますね。そのときにおうちの人はみんなを迎えに来てくれますね。保育園に迎えに来てくれるおうちの人も、帰りのバスを待ってくれるおうちの人もいますね。みんなもお父さん、お母さん、と呼びますね。
今日は、お父さん、お母さんとけんかしている健太くんの話をします。健太くんはお母さんとのけんかの途中、ふと思い出して言いました。
「かあちゃん、保育園におれを迎えに来るとき『健太!』と迎えに来たときよりも『かあちゃんだよ!』って言ってくれたときのほうがうれしかったな。」
お母さんはなぜだか分かりません。健太くんが続けて言いました。
「かあちゃん、そんなことも分からないのかよ。『健太!』は先生だって友達だって言ってくれるけど、『かあちゃんだよ!』は世界中でかあちゃんしか言えないんだよ。」
みなさん、どうですか、この話を聞いて。おうちの人と「おとうさん」「おかあさん」「○○(くん / ちゃん)」と呼び合えるって、うれしいことですね。
2010年1月
園長先生の月曜礼拝の法話
報恩講 〜しんらんさまにお礼を言います〜
白百合保育園のみんなは報恩講の礼拝がありますね。報恩講はしんらんさまの亡くなった日にしんらんさまにお礼を言う日です。
さて、みんなはおともだちと仲良くしていますか。お片づけをきちんとしていますか。おうちのひとや保育園の先生がお話しするときに、お顔を向けてお話を聞いていますか。ご飯を食べるとき、お水を使うとき、もったいないことしてないですか。
ちゃんとできてる?それは素敵ですね。そうですね、みんなは良いことをすることを知っていて、良いことをしようとがんばっていますね。
でもね、良いことをしようと思っていても、できていないときもあるでしょう?いつもできてる?本当に??
まあ、いいですよ、そう思っていても。みんな自分はいつも良いことができていると思っているんですよ。それなら、自分も他の人もみんな良い人で、けんかなんか起きないでしょう。・・・おともだち同士がけんかしているところ、見たことないですか。他の人のできていないところは見えても、自分のことは見えていない、分かっていないかもしれませんよ。
しんらんさまは、そんな私たちに、自分たちのありのままの姿を見てくださいよ、と教えてくれました。そして、良いことをしようとがんばっていても、『ぼくは、わたしは、良いことしてるんよ〜!』と威張ったらいけないよ、と教えてくれました。私たちはしんらんさまの教えを聞いて、いつも謙虚に、穏やかに、一生懸命生きていきたいですね。
2009年10月
園長先生の月曜礼拝の法話
「さつまいもからさつまいも」
みんなはこの前保育園でさつまいもを掘りましたね。たくさん掘り出しましたか。やきいもを作って食べた?おいしかったですか。
さて、みなさん、さつまいもを作るのに、何を植えるか、知っていますか。さつまいもは、さつまいもの苗を植えますね。そうですね、さつまいもを植えるからさつまいもができるんですね。え、当たり前?そうですか、当たり前だと思いますか。そうですね、さつまいもの苗を植えて、とうもろこしができたら大変ですね。さつまいもを植えて、カレーライスができたら、困りますね。え、カレーのほうが好き?まあ、そういう人には良いかもしれませんが。でも、さつまいもからはさつまいもができますね。とうもろこしもカレーライスもできませんね。
このさつまいもの話は当たり前のことなんだけど、私たちは普段当たり前じゃないことを、期待したりしていませんか・・・。
2009年9月
園長先生の月曜礼拝の法話
お肉は、お魚は、お野菜は、みんなのいのちになるんだよ
みんな、魚釣りしたことありますか。園長先生も子どものころにしましたよ。友達と一緒に海に行って、朝から夕方まで魚を釣りました。園長先生は釣りが上手じゃなかったから、あんまり釣れなかったんだけどね。
今日は先生のお友達のいちろうくんのお話をします。いちろうくんは友達と一緒に魚釣りに行きました。きれいなお魚が10匹くらい釣れました。いちろうくんはそれを晩御飯のおかずにしてもらおうと持って帰りました。おうちの人はおおよろこび、早速料理することにしました。いちろうくんもおおよろこびです。
釣った魚は生きていて、汲んで帰った海の水の中を泳いでいます。それをいちろうくんのお母さんが取り出して、頭を切り落とし、おなかを切って内臓を出して料理をしています。それを見ていたいちろうくんは、さっきまで生きていたのに・・・、だんだん悲しくなってきました。
『ごはんできたよ〜』
いちろうくんはご飯を食べるテーブルの前に座りました。でも、さっきまで生きていたお魚は頭を切られ、お腹を切られ、死んでしまいました。
『さあどうぞ』
とお母さんに言われても、いちろうくんは食べられなくなりました。いちろうくんの目から涙がぽつん、とこぼれました。それをみていちろうくんのお母さんが言いました。
『いちろうくん、さっきのお魚さんはね、いちろうくんに食べてもらって、いちろうくんの 身体になるんよ。いちろうくんがこのお魚さんを食べたら、お魚さんはいちろうくんと一 緒に生きていることになるんよ。』
それを聞いていちろうくんは、
『じゃあ、お魚さんはぼくの身体の中で生きていくんだね。』
といいました。
『そうよ、だからね、お魚さんを残さず食べようね。そしていちろうくんも 元気いっぱいになろうね。』
『うん、じゃあいただきます。』
いちろうくんはご飯を食べました。
2009年8月
冬を知らないセミ
毎日暑いですね。みんなは暑い夏が好きですか。好きな人、嫌いな人、いるかもしれないね。今日は夏になったら出てくるセミのお話をします。
セミは、夏になったら地面から出てきて、夏の間だけ空を飛んだり木の汁を吸ったりして生きています。みんな、セミを捕まえたことある?捕まえて、虫かごの中で飼ったりする?
園長先生も子どものころは捕まえていましたよ。今は、みんなみたいに網を持って捕まえに行かないけど、命が終わって死んでしまって地面に落ちているセミは時々見かけますよ。
そうですね、セミはすぐ死んでしまうんです。セミは、冬が来る前に死んでしまうんですね。だから、セミにとっては、地面の上の外の世界は、いつも暑い時だけです。だんだん寒くなって、雪が降ったり、春になってだんだん草が生えてくることも知りません。世界はいつでも暑いんだ、と思っているかもしれませんね。
みなさんはどうですか。自分の知っている世界が全てだと思っていませんか・・・?冬が来るのを、春が来るのを、本当に知っていますか・・・。
2009年6月
世界にひとつだけのおもちゃ 〜なんでそのおもちゃを大事にするの〜
みなさんに聞きます。あなたという人は、あなたのほかにいますか。世界のどこかにあなたと同じ人がいますか。いませんね。あなたは世界に一人だけですね。
保育園には、にわとりやうさぎがたくさんいますね。みんな同じにわとりですか。違いますね。それぞれ別のにわとりで、いなくなったらもう二度と同じにわとりはいませんね。みんなは生き物のいのちは世界に一つだけで、代わりはないってこと、よく知ってますね。
それでは、みんなはおもちゃを持っていますか。大好きなおもちゃがありますか。おうちの人に買ってもらった大切なおもちゃがありますか。それはおうちの人があなたのためにくれた、世界にたったひとつだけのおもちゃですよ。壊れてしまったら、なくなってしまったら、新しいのを買ってもらっても、それは今まで大事にしてきた大好きなおもちゃとは別のものですね。毎日お家に帰ったら遊んでいたおもちゃは、よくおうちの人に読んでもらっていた絵本は、毎晩一緒に寝ていたお人形は、世界にひとつだけのおもちゃですね。同じものはほかにはありませんね。だからそのおもちゃは大事なんですよ。新しいのを買ってもらったら、それは新しい別のおもちゃなんですよ。
そのおもちゃは世界にひとつだけのおもちゃなんですね。
2008年12月
報恩講 〜しんらんさまにお礼を言います〜
みなさんはこの前、報恩講(ほうおんこう)をおつとめしましたね。報恩講はしんらんさまの亡くなられた日で、白百合保育園では報恩講の日に、しんらんさまにお礼を言います。
さて、ところでみんなは、こんなときどうしますか。みんなで遊んでいて、お片づけの時間になりました。お片づけする?そうですね、お片づけしますね。お片づけしていないお友達がいたら、どうする?「一緒にお片づけしよう」、っていう?それはいいですね。ぜひそうやってお片づけに誘ってあげてください。じゃあ、おもちゃやお道具を違うところに片付けようとしているお友達がいたら、どうする?正しいところに片付けるように言う?一緒に片づける?「00くん、00ちゃん、それは違うよ」、って言う?そんなときどうしたらいいか、しんらんさまに教えてもらいましょう。
むかしむかし、しんらんさまはほとけさまみたいな人になろうとがんばっていました。でも、ほとけさまのようにいつも穏やかで優しい人にはなれませんでした。がっかりして悲しくなっていたのですが、そんなとき、どうしてもなまけてしまう、怒ってしまう、そんなわたしだなあと気づきました。そして、「じゃあ、そんなわたしに出来るだけがんばろう」、と思えるようになりました。
さあ、みなさん、「それは違うよ!」「お片づけせんといけんよ!」とお友達を怒っていたんじゃ、怒られている人と変わりませんよ。だって、それじゃ結局楽しくないでしょう、一緒に遊んだあとなのに。「それはこうだよ」、「一緒にしようよ」、と優しく仲良く誘ってあげましょう。自分ひとりがんばっていても、他の人も幸せになってなかったら、あなたも幸せじゃないですよね。
2008年11月
成道会 〜お釈迦さまがほとけのさとりをひらいた日〜
お釈迦さまがお釈迦さまになったときの話をします。
昔、昔、山の中を旅人が歩いていました。その旅人は何日も食事をしてなかったので、とうとうおなかが空いて、疲れ果てて、倒れてしまいました。そこへ3匹の動物が通りかかりました。くまときつねとうさぎです。3匹は倒れている旅人を見ておどろき、心配しました。
「大変だ、倒れている人がいる。」
「なんとか助けてあげよう。」
「どうしよう、そうだ、みんな食べ物を探してこよう。」
くまは川で魚を捕ってきました。きつねは、やまぶどうの実をくわえてもってきました。しかし、うさぎは何も見つけられませんでした。3匹は旅人のところに戻ってきました。食べ物を何も持っていないうさぎをみて、くまときつねは怒って言いました。
「何で食べ物を持ってないんだよ。」
「それじゃ旅人は困ったままじゃん。」
やがて目を覚ました旅人にうさぎは言いました。
「わたしたち3匹は疲れて弱っているあなたに食べ物を持って来ようとしました。でもわ たしは何も見つけられませんでした。」
さらにうさぎは言いました。
「ここに焚き火をしてください。」
旅人は何でだろうと思いながらも、焚き火をしました。そのときです。うさぎが言いました。
「あなたに何もしてあげられないわたしです。これから焚き火の中に飛び込みますから、 おいしそうに焼けたら、わたしの身体を食べてください。」
そしてあっという間に焚き火の中に飛び込んで、うさぎは焼け死んでしまいました。
旅人もくまもきつねも、とてもおどろいて、悲しくなりました。
わたしたちには、このうさぎのようなことはできませんね。でも、私たちは私たちにできることをすればいいのです。相手のために共に苦しむ、悲しむことができます。その心をほとけのこころというのです。ほとけのこころは誰にでもあるのです。わたしたちが誰かのことを自分のことのように大切に思うとき、きっと他の誰かがわたしたちのことを自分のことのように大切に思ってくれているのですよ。そんなほとけさまの教えをおしゃかさまがわかった日が、成道会なのです。
2008年10月
素敵なひとになる方法
先日、ラジオのコマーシャルでこんなことを聞きました。
「車を運転中のみなさん、前の車がのろのろ運転、つい、『早く行けばいいのに』と思ってしまいます。前の車がカーブをうまく曲がれないと『さっさとしよろ』と思ってしまいます。でもね、そんなときは一息ついて、『イライラしちゃって、ごめんなさ〜い。』心にブレーキをかけましょう。みんなの道路、みんなで仲良く使いましょう〜。」
さて、保育園のお友達、みんなは自分ができることをお友達ができないでいると、どんなふうに思っていますか。『これをせんといけんのに、してない人は悪いんで〜。』『なんでせんのん、ずるい〜。』とか思ってませんか。思ってない?それならいいですけどね。もし、そんなふうに思ってる人がいたら、みなさんどう思いますか。素敵な人?素敵じゃない?素敵じゃないですよね。すぐに腹が立ってほかの人を責めたり怒ったりする人は、素敵じゃないでしょ。
それでは、素敵なひとになる方法をみんなで考えましょう。それはね、腹が立ったときには、すぐに怒らずに、一息ついてこう思ってみてください。『腹を立ててしまってごめんなさ〜い。』そうしたら、みんなも、先生も、素敵なひとになれますよ。
2008年9月
地獄の運動会、極楽の運動会 〜さあ、あなたはどっち?!〜
もうすぐみんなが楽しみにしている運動会ですね。いっぱい練習してきましたか。
さて、今日は地獄の運動会と極楽の運動会のお話をします。地獄の運動会って、どんな運動会でしょうか。様子を見てみましょう。みんなで競技をしています。みんなで力を合わせてゴールを目指しています。こんな声が聞えてきます。「そこ、そうじゃない、なんで出来んのじゃ!」「ぶつかった、痛いじゃんか!」「あいつが出来んからいけんのんじゃ(怒)」(備後弁バージョン)そして怒られて泣いている人がいっぱいいます。怒っている人と泣いている人ばかりです。怒っている人は面白くありません。怒られて泣いている人も面白くありません。
それでは、極楽の運動会を見てみましょう。ここでもみんなで競技をしています。「そこはこうするんよ。」「ぼくがうまく出来んところを教えてくれてありがとう。」「上手くできんでごめんな。」「ええんよ。一緒にがんばろう。」助けてもらっている人は感謝してうれしくてにこにこ顔、感謝してもらった人もうれしくてにこにこ顔です。
さあ、みなさんはどちらの運動会がいいですか。あなたはいつもどちらの運動会をしていますか。どちらの運動会をしたいですか。