神風特別攻撃隊敷島隊戦士の遺書

昭和19年10月25日スルアン島海域ニテ戦死(20歳)
 聖訓五ヶ条とは、明治天皇から陸海軍人に下賜された「勅諭」のことで、軍人徳育の規範として
兵隊さんは教育期間中 毎日 発唱していました。

第一ヶ条には、軍人としての忠節、報国ということが強調され その条文に 「己が本分の忠節を
守り義は山嶽より重く 死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」と個人の 命の 有りようが 明示されていました。

当時青少年の憧れであった 予科練の戦闘機乗りたちは、ひたすら五ヶ条に精進し、信念を固め
志気を研ぎ澄ませ、別人を自分の中に育てて行ったのでしょう。
聖訓五ヶ条も 特攻精神をはぐくんだ背景の一つだったのかも知れません。

それにしてもこの遺書は、特攻が発動されるかなり前に書き残したものですが、一字一句が
燐光を放つようなすざましいまでの覚悟です。 特攻の一番隊として、たぎる血潮を、そのまま
敵艦にぶっつけて征ったのでしょうか。

しかし、我が子の壮絶な死をよろこんだ母は、一人としていなかったのです。


谷 暢夫が散華してから三十数年近くたって、当時、201空にいて生き残った人々や、
あるいは死んだ人々の家族が、マバラカットを経由してタクロバンを訪れたことがある。
この鎮魂の旅に、その時、七十四歳の 谷 暢夫 の母も加わっていた。
 老婆は、タクロバンの海に向かってちょこちょこと危なげな足取りで駆けて行き、腕に
抱えた花束を海辺にポーンと投げたのだ。
その時、白い大きな波が打ち寄せ、老婆の膝のあたりにその しぶきが かかった。
「ああ、暢夫(ノブオ)が来た!」と老婆は思わず言ったという。
白い波を死んだ息子の霊魂と信じる母。 かって遠い異境の地に散華した 若者達は、
この時、母の心の中に 新羅万象に身を変化して生き続けている と言うことを、
この悲しい事実が伝えているのだ。 余りにも深い 傷痕の黙示録である。

(森本忠夫「特攻」文芸春秋から)


 「予科練」 : 海軍飛行予科練習生の略称で、海軍少年航空兵のことです。
 予科練は、海軍のパイロットを目指して、全国各地から 志願選抜された14,15歳の

 少年達が、茨城県の霞が浦や土浦にあった海軍のパイロット養成学校で約3年間 パイロット
 としての 基礎を学び、操縦技術を修得していった制度です。

 太平洋戦争の初期、神話にまでなった「ゼロ戦」の強さは、予科練パイロットの神業的な
 操縦技術であったと言われています。

 大空のエースとなって戦った予科練パイロットも、やがて次々と大空に散っていきました。
 特攻で戦死された、予科練出身者は 千七百四十余名 といわれています。


「若鷲の歌」(予科練の歌)
兵学校 関  大尉 予科練 谷 飛曹 予科練 浅田飛曹 京  大 千原少尉
日  大 中根中尉 慶  大 上原少尉 予科練 松本飛曹 日  大 池淵中尉