「大和」の砲弾
大和の砲弾

「教育参考館」前庭の軍艦「大和」の18インチ(46センチ)砲弾
右後ろはハワイのパールハーバーに突入した特殊潜航艇の先端部

日本海軍の栄光と悲劇の象徴となった「大和」は、戦に敗れてから 半世紀を経た今も、多くの人に様々な思い入れを与え続けています。

「大和」と共に殉じた乗組員三千有余名の遺徳が、そして、国の命運を託して建造した巨艦えの ロマンが、不戦の思いと共に世代を越えて静かに語り継がれているのだと思います。

平成11年の探索によって、また甦った軍艦「大和」の真価は、識る人ぞ知る 超一流の建造物でした。 直径46センチの 一発の砲弾に集約されたその工業技術は、 まぎれもなく世界最高であり 戦後日本の大いなる復興を支えたことは誰もが知っていることです。

「教育参考館」前庭に展示してある大和の砲弾は、例えれば水道の蛇口のようなものです。 その先端技術についての解説は、管理人の駄文ではなく、伊藤正徳氏の著書「大海軍を想う」から 大和の主砲に関する一節を引用させてもらいます。

 
下のタイトルをクッリクすると引用文がでます、消すときもクッリクです。


天下無類の砲塔操作世界最強の水圧ポンプ

最後に、激戦の海から奇跡的に生還された「大和」の副長が、初めての
大和戦没者慰霊祭に於いて 霊前に手向けた弔辞の一節を紹介します。
特攻「大和」最後の出港は、昭和二十年四月六日の夕刻でした。

「‥‥三田尻沖を進発して間もなく、手空きの総員前甲板に
 集まりて「君が代」を  奏唱す。
 夕もやに薄れ行く内地の山々。 雲か霞か、遙かに見ゆる
 爛漫の桜花。 山答えず、花語らず。 万感胸にせまり、
 歌い終わるも暫し、動く者さえなし。 女々しと云うなかれ
 頬を伝うは これ、懐かしの故国に贈る惜別の涙。‥‥‥」

 このとき歌いあげた、君が代の「君」が 誰であったかは、 問うのも愚かなことです。
 徳之島沖において、二時間余の戦闘の後、沈没するのは、翌日の四月七日でした。

 終戦から60年後の平成17年の春、「大和」は平和へのモニュメントとして呉の街に
 「大和ミュージアム」としてよみがえりました。

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