私の俳号は、春休(しゅんきゅう)という。その由来を一言でいってしまえば、春期休暇、ハルヤスミである。が、しかし、なぜ春休という俳号をつけたかというと、単に俳句を始めたのが春休みだったから、というだけでは済ますことのできないものがあったのだ。少なくとも、私自身にとっては。
私が俳句を本格的に始めたのは、1998年の3月、大学生活最後の、いやたぶん人生最後の春休みにおいてであった。それ以前にも、所属していた文芸部でちらほらと俳句らしきものを書いたことはあったけど、それはある意味では逃避行動に過ぎない、という意識があったのだ。
大学時代、文芸部に所属していた私は、詩や童話を書いていた。ハイティーンの青年特有の、さまざまな屈折がその中に含まれてはいたけれども、一番大きな動機は、中原中也への憧れだった。牧歌的な田園の中の大学に通学していた私は、その道すがら「ああ家が立つ家が立つ/僕の家ではないけれど」と、中也の詩をくちずさんでいた。すなわち敬虔な中也教徒だったのだ。その延長線上に、文芸部での詩作があった。童話もその延長線上。が、しかし、書けば書くほど中也との距離を感じずにはいられない創作行為は、中也への憧れが原動力で創作を始めた者にとっては苦痛以外の何物でもなく、だんだんと創作意欲を失っていった。しかしその頃には、文芸部という組織は、私の社会生活上欠くことの出来ない要素になっており、文芸部をやめる、というわけにも行かなかった。文芸部をやめない以上、何らかの作品を発表すべきだ、という変な律儀さから、自分への苦痛をもたらさない、俳句の創作をちらほらと始めることになったのだ。
このときの俳句創作は、完全にお遊びであり、お遊びの域を出ないことを自らに課していたように思う。それは、もう一人の憧れの対象、与謝蕪村の存在が、あまりに大きかったからだ。蕪村への憧れは、大学二年生の頃の近世文藝研究会に始まる。先輩が手渡してくれた「北寿老仙をいたむ」という詩に、私は完全にイカレてしまったのだ。その詩は、萩原朔太郎が述べたとおり、作者名を伏せてあれば明治時代の詩であると言われても納得してしまうくらい近代的なものだった。が、そんな近代性なんてものは、この際どうでも良い。その詩は、アルカイックで、なおかつ完成された詩だった。それで充分だったのだ。とにかく私はイカレた。この感じは説明しようがない。そして私は蕪村の俳句を読み、自分の一目ボレがいかに正しかったかをどんどこ痛感することになったのだ。だから、もし本気で俳句に取り組んだら、蕪村と自分とを比べてしまい、詩や童話の二の舞になる。直感的にそう感じていた。そして、蕪村との微妙な距離を保っていくことにしたのである。
しかし、大学卒業と同時に、ほうっておけば蕪村との距離は必然的に離れていく。そりゃあ、一日中蕪村関連の論文に埋もれて暮らしていた生活が終わって、社会人一年生になるのだから、当り前といえば当り前だ。そこでふっと蕪村への未練を感じて、自分でも俳句をやってみようかな、ということになった。この「未練」というやつは、蕪村に対してだけでなくて、いろんなものにもひっついてきた。そんなものの中の一つに、おそらくは人生で最後の「春休み」があった。そこで、思いつきで、俳号を「春休」にするのはどうかな、という案が浮かんだ。ちょっとふざけてるかなとも思ったけど、蕪村の画号の一つに「春星」というのがあったのを思い出し、結局「春休」という俳号に落ち着いたのだった。
そんなぐちゃぐちゃした経緯があって、俳句を作り始めた春休ですが、俳句の師である辻桃子主宰に出会っていなければ、きっと何ヶ月かで俳句もやめちゃってたと思います。詩のときとおんなじ理由で。
主宰には、表現することの純粋な喜びを教えてもらいました。そんな主宰に賜った次の一句は、私のこれからの創作の支えになってくれるだろうと思います。
春休と俳号つけて春星忌 桃子
蕪村への憧れと俳句を作ることのたのしさと、そのどちらともに、自分なりにこだわっていきたい。
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