『饑童子』には、私の知らなかった辻桃子がいる。
『饑童子』は、一九九五年から一九九七年までの三年間のの作品約七百二十句を収めた、辻桃子の十冊目の句集である。私が辻桃子の弟子となったのが一九九八年であるから、私は『饑童子』において初めて、この時期の辻桃子の句に触れた訳である。
『饑童子』に収められた俳句は、これまで読んできた辻桃子の俳句の中でも、最も穏やかな句であるように感じた。まずこの句集の一頁目、
白鷺の総毛立つたる淑気かな
花札をかちりと打つや山眠る
「一九九五年元旦」と前書のある一句目も、自選十句にも掲げられた「花札」の句もまた、穏やかである。自己主張の強い余計な言葉は存在しない。季語の持つ力を最大限に引き出すために、穏やかにして確かな写生が、そこにあるばかりだ。
穏やかさの他に、この句集を読み進めていく上で感じたのは、ゆったりとした時間の流れであった。
白酒に沈みてしんとめしの粒
それを特に強く感じたのは、この句である。めしの粒が、ゆらゆらと白酒に沈んでゆく時間。めしの粒が、白酒の底に沈んでからの長い長い時間。それを、作り手と読み手は(時間と場所を隔てていながら)共有することとなる。季語である白酒の生み出すイメージや連想によって。そして何より、「しんと」という一語で表された、めしの粒の存在の確かさによって。
身のどこか焦げ始めたる日向ぼこ
芋煮えて炎に疲れ出てきたり
これらの句も、そうだ。「日向ぼこ」からは、身のどこかが焦げ始めるまでの、思わず眠たくなってしまうような、長ーい長ーい時間が読み取れるだろう。疲れが出てきた炎にも、勢いよく芋を煮ていた輝かしい時代があったはずなのだ。
句の中で描写されているのは、あくまで一瞬の事柄。しかし、読み手に句が届いた途端、その一瞬の事柄をきっかけとして、読み手の中にゆったりとした時間の流れが再現される。句の印象は穏やかで、身近な事柄を描いていながら、ゆったりとした時間の流れを内包することによって、スケールの大きな、豊かな句に成り得ている。
師の句を読むとき時折考えるのだが、一体、どうすればこういう句を作ることができるのだろうか。
ここからは、想像の域を出ないのであるが、恐らく、吟行などでも、一箇所にとどまって、一つのものをずーっとずーっと見て、見続けているのではないだろうか。一緒に吟行している連衆が、一人、また一人と違うものへと目を移し、歩き去っていっても、辻桃子は、まだまだ同じものを見続けているのではなかろうか。先日、師の手紙の中に「句会は歩かないことに限ります」とあったのはきっと、こういうことに違いない。
芋煮会に起こる諸々の出来事。材料にまつわることであったり、参加者にまつわることであったり。例えば、多すぎたり少なすぎたり、不格好だったりする野菜たち。使い込まれた調理道具。毎年遅れてくるメンバー。そんな諸々の出来事を、辻桃子は、ずっとずーっと見続けているのだろう。そうして、芋を煮るという目的を果たして、勢いの弱まってきた炎を、見逃すことなく一句にしたのであろう。
こうして改めてこの句を読むと、何やらこの炎からは、なすべき仕事をし終えた充実感のようなものさえ感じられてくるようだ。そして、この炎の弱まりを「疲れ」とやや擬人的に表現する詠みぶりからは、私たちに恵みをもたらす炎への、感謝にも似た慈しみの心情が感じ取れる。辻桃子の「見る」とは、「見守る」と言い換えても良いものなのかもしれない。
水をみる鷺も鴨川をどりかな
鴨川踊を見ている辻桃子の目に、鷺が映った。鷺も鴨川踊の方を見ているかと思うと、そうではない。我関せずと水面を凝視している。あるいは鷺は、水中の魚を捕まえようとしているのかもしれない。人間には人間の、鷺には鷺の生活があるのである。しかし、辻桃子にとっては鴨川踊の人々と同じく、鷺もまた愛おしい。読み手は、「鷺」の後に置かれた「も」の一字から、その心情を読んで取れるだろう。
言うまでもなく、これまでに取り上げた句から、壮大な物語などは読み取れない。そこに表現されているのは、本当に何でもないような一瞬の出来事。しかし、その一瞬の出来事を通して、読み手が作り手の心情を読み取り、共有することができる。それは俳句にしかできないことだろう。『饑童子』は、そのことを強く感じさせてくれた句集であった。
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