満 た さ れ て い る 器
−大野朱香 第四句集『一雫』を読む−
貴方の『一雫』は、どこに置いてあるだろうか。私の『一雫』は、本棚にはない。ほとんど常に句会用の鞄に入れてある。他でもない、句会へ行く途上で読むためだ。『一雫』を読むと、肩の力が抜け、気持ちが自然と弾んでくるのだ。目に触れるもの全てが、活き活きとしてくるような気さえする。 『一雫』の魅力は、何と言っても、句に描かれた対象が活き活きとしていることだろう。 とほり雨おたまじやくしの頭打つ 初浅間驢馬より湯気のたちのぼり 風花や小屋のうさぎの立ちあがり みつばちの降りたきれんげ揺れやまず お玉杓子も驢馬も、小屋の兎も蜜蜂も、実に活き活きとしている。描かれているのはほんの一瞬の動きや出来事であるのに、それらの対象が一所懸命に生きていることが分かってしまう。「分かってしまう」とは変な言い方かもしれないが、これほどまでに一所懸命さが伝わってくる不思議さを、読み手として感じている私にとっては、「分かってしまう」という言い方が自然なのである。 「風花や小屋のうさぎの立ちあがり」について見れば、文字通り、そこには風花と、立ち上がった小屋の兎とが存在するばかり。しかし、読み手は「立ちあがり」という単純な動作を手がかりに、兎の心の中を読み取ることができる。風花に気づいた兎の反射的な動き、その兎の心中は「風花だ!」という一事によって満たされている。五七五という器もまた、「風花だ!」の一事によって満たされているのである。読んでも読んでも読み飽きることのない、豊かな句だ。 活き活きとしているのは動物達ばかりではない。 大夏野沼のにほひのさまよへる バス停のすつくと立てる氷湖かな 大いなる夏野をさまよう「沼のにほひ」。この句には、「さまよへる」でしか言い表せない「沼のにほひ」の在り様があり、その在り様によって裏打ちされる夏野の広大さがある(例えば仮に「さまよへる」を「ただよへる」に置き換えてみると、「沼のにほひ」や夏野の存在感は、数段頼りないものに感じられてしまう)。「バス停」も、草木枯れ、鳥達も見当たらぬ静寂の氷湖のほとりであればこそ、その凛とした佇まいが引き立つ。これらの無生物も、先ほどの動物達に負けず劣らず、非常に表情豊かで、確かな存在感を持っている。 存在感と言えば、『一雫』の句の中には、書き手自身の存在が強く現れているような句はほとんどない。 摘む影の近づいてきし土筆かな 主客逆転したかのようなこの句が、最も書き手その人の存在が句に現れている句と言えようか(この「摘む影」とて、書き手その人であるという保証はないのだが…)。このような句はこの句集においては珍しく、あくまでも書き手は句の奥に控え目に存在しているのが常である。 先ほど触れた「大夏野沼のにほひのさまよへる」でも、自分を主人公とし、「沼のにほひ」のする大いなる夏野をさまよう自分、という趣旨の句も在り得るはずだが、大野朱香という書き手は、そういう在り方を選んではいない。あくまでも目の前の景・出来事を見据え、その中心を捉えて句を成している。 一粒の砂をかかげて蟻歩む 実梅じやま小石がじやまと蟻歩む 冬空へ長くのびしが亀の首 幾つか思いつくままに私の好きな句を挙げてみたが、いずれも書き手の「目」の行き届いた句だ。一句目、蟻が砂粒を運んでいる景であるが、「かかげて」に注意して読めば、いかに大事そうに運んでいるか、蟻の必死さが伝わってくる。二句目の「じやま」の繰り返しからは蟻のいらいらとしたせっかちな歩き様が、三句目の「長くのびしが」という表現は、そのゆったりした響きから、亀の首の長さ、ひいては冬空の下の亀の動きの鈍さまでもが見えてくる。いずれも巧みな表現だ。しかし、その巧みさも決して強調されることはなく、あくまで自然に一句にまとめられている。そこからも、巧みな表現や言い回しの上手さなどより、自らの「目」に映ったものを尊重する書き手の姿勢が確かに伝わってくる。 『一雫』においては、書き手の「目」に映ったものがそのまま、五七五という器をすんなりと、穏やかに満たしているかのように感じられる。そのような充足した一句一句が集まって、句集という、より大きな器を満たしている。であればこそ、私は大野朱香という書き手を信頼し、『一雫』という句集をこれからも読み続けていくのだろう。きっと来月も、句会へと向かう、列車に揺られながら。 (「童子」2009年6月号掲載) |
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