『川端茅舎句集』は、秋から始まっている。それも、露の句が二十六句も並んでいるのである。私がこれまで読んだ俳句の中で、この露の句群ほどの緊迫感を持って、私の胸に迫ってきたものがあっただろうか、いやない。そして、これらの露の句群の後にも、懐かしくも凛として清々しい句たちが並んでいる。最初に断っておくが、私は、川端茅舎という作家のファンなのである。
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり
私がテキストとしたのは朝日文庫版の『川端茅舎句集』であるが、その頁を開くとまず「けり」「かな」の多さに気付かされる。当然のことながら、晩年の『白痴』と比べると表現上の技巧はまだ発展途上であり、語彙の多彩さはないがその分単純にして率直な印象の句が多い。この句も作りは単純だが、「たぢたぢ」という絶妙な擬態語によって、露の玉と蟻の存在感がはっきりと伝わってくる。これほど露の玉の「大きさ」を感じさせてくれる句も記憶にない。
舷のごとくに濡れし芭蕉かな
寒月や穴のごとくに黒き犬
茅舎はよく「如く俳句」の名手と呼ばれるが、これらの句などはその手腕を見事に発揮したものと言えよう。芭蕉の葉を波に濡れた船べりと見立てたときに、ひろびろと、濡れた空、濡れた空気までもが見えてくる。寒月のもとにうずくまっている黒い犬。この黒い犬のさみしさのようなものも、黒さだけでなく欠落をも暗示する「穴のごとくに」という比喩によって言い止められている。そして、そのさみしさは寒月の明るさとの対比によって否応もなく増幅される。茅舎の「如く俳句」は、意外性と説得力を併せ持っているために、単なる比喩で終わってしまうことなく、句に命を与えることに成功している。
ふかぶかと森の上なる蝶の空
蝶の空七堂伽藍さかしまに
「ふかぶかと」という語は、一般的には基点となる位置から下の方向へ向かって広い場合に用いられるが、茅舎はあっさりとそれを逆転させて見せる。それは、己を空しくして、蝶という存在に没入したからこそ可能な表現だ。風の中を乱れ飛ぶ蝶の目には、空は、どこまでも落ち沈んでしまいそうな海のように広がり、堅固な建造物さえも、ぼやけ、揺らぎ、時にはまっさかさまとなってしまうのである。
茅舎は、「花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事」が「花鳥諷詠の律法」であると述べている。これらの句は、そんな茅舎ならではの句であろう。夢でも観念でも抽象でもなく、ひたすら現世の事象に対して謙虚であること。茅舎は、虚子の称える花鳥諷詠をそのようにとらえ、それを実践しようとしたのである。「たぢくの蟻」も「穴のごとくに黒き犬」も「蝶の空」も、そうした謙虚な態度から生まれた表現なのである。
金剛の露ひとつぶや石の上
「露」という季題は、古くから歌や句に詠まれ、日が当たれば消えてしまうところから、はかないものとして扱われてきた。「鳴きわたる雁の涙や落ちつらむもの思ふやどの萩の上の露」(古今集)等の古歌から連綿と続く日本の詩歌の歴史が、こういった季題を生み育て、より豊かなものに、より確かなものにしてきたのである。しかし、創造とは、その豊かにして確かなものに、何らかのものを付け足すことでもある。季題が豊かであればあるほど、確かであればあるほど、何かを付け足すことは困難になる。それは、陸上競技の世界記録更新のようなものだ。しかし、茅舎は、この句によって軽々と記録更新をやってのけたのである。
この句の中七下五だけを読めば、それは何の変哲もないものだ。しかし、その上に「金剛の」という上五を据えた途端に、この句の持つ意味は全く変わってしまう。それまで、はかなく、小さく、消えやすいものとして存在していた「露」が、「金剛の」という上五を得て、この世で最も強靭で確かなものとして、ひとつぶ、石の上に存在することとなる。「露」がそのような形でも存在し得ることを、茅舎は五七五で提示したのである。
この句が詠まれる前と後とでは、「露」という季題は確実に変わったのである。茅舎は「露」という季題の本意をしっかりと踏まえながらも、「露」という存在に没入することによって、それまでの「露」という季題を、見事に裏切ったのである。そして、「露」という季題そのものを、新しくしたのだ。これは、茅舎の花鳥諷詠による、一つの大きな成果と言えよう。
それと同時に、この一句の制作により、茅舎はその制作以前の自己とは確実に異なる、新しい自己をつかみ取ったはずだ。そしてまた、そうした現象が作者に起こっていることを、読み手である私もひりひりと感じ取るのである。このとき、「読む」という行為もまた、創造的であり得る。なぜなら、「読む」という行為によって私は、私の意識の中の「露」という季題の持つ意味を変え、そのことによって、私もまた変わったのだから。
「露」も「蟻」も「芭蕉」も「黒き犬」も「蝶」も「七堂伽藍」も、茅舎によって変えられ、新たに命を与えられ、同時に茅舎を新しくし、読み手をも新しくする。そんな力をこの平成になっても持ち続けている清新な句集を、私は他に知らない。
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