「切れ」の条件


 もうすぐ創刊から2周年を迎える「俳句現代」は、非常に思い切った編集方針の俳句総合誌だ。毎号大胆に頁数を割いて特集を組んでおり、なかなか読みごたえがある。特集の他にも、ここ数ヶ月は歌人・川柳作家の短歌・川柳作品をも掲載しており、短詩形全体を展望しようという志が感じられる。その「俳句現代」の10月号から、「現代思想と現代俳句」という五島高資氏による連載が始まった。量子力学から蛋白質合成システム、さらには宇宙の誕生まで、様々な現代思想の成果と現代俳句とを論ずるという興味深い連載である。その連載の第一回は連載の導入部であり内容もまだ概論的であったためにはっきりとは違和感を感じなかったのであるが、第二回を読むとかなり明確に違和感を覚えた。ここでは、その違和感について述べてみたい。
 第二回の連載の副題は、「『切れ』という詩的構造」とされている。その論の流れは以下の通りである。「『キレ』と『切れ』」と題して、現代の日本人に顕著になった「キレ」るという現象と俳句における「切れ」を精神エネルギーの葛藤とその葛藤の克服という共通の視点から論じ、例句を挙げて「切れ」の構造について述べる第一章。「無意識的共有感覚と『切れ』」と題して、宗祇から芭蕉への「切れ」の歴史を踏まえ、「切れ」という意味の切断によって「俳句の裏に」隠れている「意外な別の意味」が「常識的な固定観念を超えたところの無意識的共有感覚によって気づかれなくてはならない」と述べる第二章。「世紀を超える『切れ』」と題し、例句とスペンダー卿の詩句から、瑣末写生の否定とマクロコスモス的精神の恢復を主張する第三章。
 こうして大まかな流れで論を捉えてみると、さして違和感も覚えない。第二章における、切れという意味の切断によって「俳句の裏に」隠れている「意外な別の意味」が「常識的な固定観念を超えたところの無意識的共有感覚によって気づかれなくてはならない」という切れについての定義も、ある程度妥当なものと言えようか。ではどのような点に違和感を覚えたかと言うと、その定義を帰納し、その定義から導き出される、例句の解釈についてなのである。まず、第二章における例句の解釈の部分を引用する

    あぶらぜみ空をいためて食べている   恩田皓充
 切れ字こそないが、上五と中七の間にリズムにおいても、また意味においても「切れ」が認められる。「あぶら」と「いためて」が調理という観念、あるいは、油蝉のジージーという野太い泣(ママ)き声と炒めものを調理するときの「音」との二重の連想において繋がるが、油蝉が空を食べることはあり得ないのであって、その意味では常識を逸して「キレ」ている。・・・(以下略)

 「切れ字こそないが、上五と中七の間にリズムにおいても、また意味においても『切れ』が認められる」という部分がまず不可解である。この上五と中七の間に、意味の上での「切れ」が認められるだろうか。この上五と中七の間にあるのは、「油蝉が空を炒めて食べている」という場合の、主格の助詞「が」の省略であり、俳句における「切れ」とはあきらかに別種のものだ。もしもこの上五と中七の間に意味の上での「切れ」を認めるならば、中七と下五はその主語を失って、宙に浮いてしまうことになるだろう。また氏のように、常識を逸して「キレ」ているという点を俳句の「切れ」の主要な要素として考えるなら、それはもはや俳句特有の構造とは言い難く、詩のレトリックとしてごく基本的なものとなるだろう。次の短歌を例に述べる。

  春昼は大き盃 かたむきてわれひと共に流れいづるを
                           水原紫苑

 まず「春昼は大きな盃である」という断定がなされる。そしてその断定と同時に、時間・空間そして自らを含めた人間という存在までも液体として捉え、春昼の過ぎて行く様を、幻想的でありながら確かな触覚的把握に基づいて詠っている。五島氏の論に従えば、「春昼は大きな盃である」という断定は、あり得ないことであり常識を逸して「キレ」ている。その上一文字分の空白を置いて、リズムの上でも「切れ」が認められると言えよう。しかし、水原氏はこの断定を「切れ」と意図してはいないだろうし、読者の方でもそれを「切れ」とは捉えないだろう。
 俳句における「切れ」は、作者が読者に対して構造的な断絶を提示する表現方法であり、その断絶を読者が補うことによって初めて俳句は完成する。つまり、作者が切る意志を持って表現し、読者がその意志を「切れ」として読み取れるかが重要なのだ。芭蕉は「切れ」について次のように述べている。「切字を加へても、付句のすがたある句あり。誠にきれたる句にあらず。又、切字なくても切るる句あり。その分別、切字の第一也」(服部土芳『三冊子』)、「切字に用る時は四十八字皆切字也。用ひざる時は一字も切字なし」(向井去来『去来抄』)。これらの言葉からは、「切れ」に対する芭蕉の基本的な姿勢がうかがわれる。なおざりに切字を用いて形式的に切るのではなく、必ずしも切字を用いずとも明確に切る意志を持って表現すること。つまり、俳句の「切れ」の構造を生むのは、作家の明確な表現意識であるというわけだ。そういった視点から「あぶらぜみ空をいためて食べている」を見直すと、明確に切る意志を持ってなされた表現とは言い難い。この句の上五と中七との間に「切れ」を読み取るのは、恣意的な読みと言うべきであろう。
 次に、明確な切る意志の読み取れる句について述べる。

   菊の香や奈良には古き仏達   松尾芭蕉

あきらかにこの句は上五において「切れ」ているが、この「切れ」は常識を逸したものではない。しかし、芭蕉は切る意志を明確に示し、読者はこの「切れ」を起点にしてこの句の豊かさに触れることができる。深まりゆく秋を感じさせる菊の香り。それに対するに、菊の香りや線香の煙が千年に渡って染み込んできたかのような、深い色合いの古仏。「奈良には」と大きく示したところからも、その古仏の経てきた年月の長さがうかがわれる。その長い年月を象徴するかのような古仏と、菊の香りとが一句の中に表されるとき、今・この瞬間の菊の香りの鮮烈さは増幅され、瞬間の季感と長い年月とが一体となって一句から立ち表れてくる。この重層的な構造が俳句の豊かさを生むのである。このような「切れ」には、まず作者側の明確な意識が必要であり、さらに読者の側でその「切れ」を補い得ることが必要だ。補うほどでもないと感じる「切れ」がツキスギであり、どうにも補いようもない「切れ」がハナレスギ。
 五島氏が第三章において例句として挙げている「年ゆくや天につながるいのちの緒 角川春樹」の「や」からは作者の切る意志が読み取れる。しかし、「年ゆく」という時期は、言うまでもなく自らの死期にまた一年近づく時期であり、そのような時期に生死のことに思いを致すのは市井人としてごく自然な感情であろう。そういう意味ではこの句はややツキスギと言える。五島氏自身が「旧来の『年ゆく』という季題の使用は、あくまで、日常生活における一年の回顧、あるいは過ぎゆく年に感じる無常観といった観念に止まっていたものが多い」と述べているが、「年ゆくや」の句も「過ぎゆく年に感じる無常観といった観念に止まっていたもの」と大きく異なるものだとは思えない。
 もう一句の例句「天へほほえみかける岩より大陸はじまる 夏石番矢」について五島氏は、「この句もまた『岩が微笑む』ことはないという固定観念が覆されるという意味で『切れ』ている」と述べている。しかし、現実の現象として「岩が微笑む」ことは起こり得ないが、俳句を含めた詩のレトリックとして「岩が微笑む」ことは決してあり得ないことなどではなく、固定観念を覆すような表現だとは言えない。むしろ、天変地異を「大地の怒り」と言う慣用句と近い次元の、ありがちな比喩ではないか。このようにしか表現できないといったような切実さも見受けられない。「油蝉が空をいためて食べる」という恩田氏のレトリックの方が固定観念を覆す力のある新しい表現だと言えよう。もちろんレトリックのレベルと俳句の「切れ」とは異なる問題である。

 ここまで述べてきて、筆者の感じた違和感の原因があきらかになってきた。その原因は、「切れ」という意味の切断によって「俳句の裏に」隠れている「意外な別の意味」が「常識的な固定観念を超えたところの無意識的共有感覚によって気づかれなくてはならない」という五島氏による「切れ」の定義が、観念や感覚という側面に偏重していることだ。それは客観性の欠如でもあり、結果として「切れ」の根本を見過ごしている。俳句における「切れ」の本質は、明確な切る意志の感じられる構造的な断絶であり、氏の言う意味の切断も、この構造的な断絶を基盤としなければ「切れ」としては成立し得ないものだと筆者は考える。


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