辻桃子を読む 第六句集『ねむ』

徹 底 写 生

 私はこれまで、「写生」という用語を使うことを、なるべく避けてきた。それは、「写生」という用語が、使用者ごとに意味や重さが全く違っている場合があり、自分が使ったときに読み手にどう理解されるか、責任が持てないと判断したからだ。
 しかし、句集『ねむ』の帯にはいきなり、「徹底写生で写生を超えたい」と書かれている。「徹底写生」、である。他人が「写生」という用語をどのように解釈するかなど、微塵も意に介する気配もない。写生否定論者に対しては、「写生を否定するより、徹底的に写生して御覧なさい。違うものが見えてきます。」と笑っていなす。写生肯定論者に対しても、「貴方たちが写生だと思っているのは、既に先達が作り上げたもの。徹底的に写生して、新しいものを作らないと意味ないでしょ。」と決起を促している。そして、帯の辻桃子の写真は、読者の方ではなく、もっと遠くの方を、穏やかな明るい表情で見ている。
 辻桃子の写生観は、宗教的と言って良い程に、確信に満ちている。そして私の写生観はまだ揺らいでいる。その差が「写生」という用語の使い方にはっきり出たのだ。

   芋虫の一つは潰れ一つ歩む

 『ねむ』を読み進めていく上で、最初に大きく印象に残ったのは、この句である。いや、この句、というより、この句の前に六句並んだ踊の句とこの句を合わせた七句である。踊六句では、踊の輪の人々を生き生きと描いている。その中には、「旅人」として踊の輪に入る、おそらくは作者本人とおぼしき人物も見受けられる。そこへいきなり芋虫は現れ、一つは潰れ、一つは歩み続けるのだ。そのとき踊の輪と芋虫とは、読者の中で鮮やかに重なる。踊の人イコール芋虫、芋虫イコール踊の人という式が成立するのである。
 虫も人間も命の重さは同じだ、なんて偉そうに説教されてもピンと来ないが、この踊の人と芋虫とのあっけらかんとした無造作な対比には、迫力がある。この迫力はやはり、写生から生まれるものだ。

   舞ひ降りて自分の場所や冬鴎(※)

 鴎が舞い降りた場所は、確かに鴎の場所と言える。しかしそれを殊更に句にすることで、すぐにそこが「自分の場所」でなくなることをも読者に予感させる。書かれざる鴎の物語があることを、感じさせるのである。

   つぶやくは鴨語鳰語や鳥帰る
   永き日や掃除機嗚呼と鳴り止みて

 作者らしいユーモアの感じられる二句であるが、このユーモアは、鴨・鳰・掃除機を擬人化することで生まれている。先ほどの「冬鴎」は擬人化とは言えないが、これらの句は、作者が対象と半ば一体化することで、対象を生き生きと描き出した句ではないだろうか。

  里芋の毛をていねいに描きあり

 内容は全く説明の必要のない句であるが、同じ絵を見た人のうち何パーセントが、「丁寧に毛が描いてある」という感想を持つだろうか。作者は、人並み外れて「里芋の絵をていねいに見てゐた」のである。画家からしてみれば、よくぞそこまで観てくれた、と言いたいところだろう。作者は、絵を観るときに、物としての絵そのものだけではなく、いかにしてその絵が描かれたか、いかにしてその絵がそこに飾られることになったかまでも、幻視しているのであろう。「徹底写生」とは、そこまで深く見ることなのか。

     波多野爽波先生危篤の報
   朝顔青く鶏頭赤く先生は

 何の変哲も無い風景であっても、ショッキングな出来事とセットになると、心に強く焼き付くことがある。朝顔が青いのも、鶏頭が赤いのも、いつも通りの風景のはずなのに、遠く離れたところで先生は、今まさに生命の危機に陥っている。しかし、読み進めていく読者にとって、もっと心に刺さるのは、そのすぐ次の一句であろう。

   松の雨松の音して桃青忌

 書かれている事柄だけを鑑賞するなら、すっきりとした単純な句だ。色変えぬ松に雨が降り、その音だけが聞こえている。穏やかな句でもある。しかし、爽波先生危篤の句の横に並ぶと、違う読みが生じてくる。爽波先生は今、生命の危機に陥っている、その動揺の真っ只中にいながら、作者は、爽波先生逝去後かなりの年月が過ぎて、さながら芭蕉の忌を修するかのように穏やかな気持ちで、爽波先生のことを思い出す日が来るのだろうか、とそこまで想いを巡らせているのではないか、と。連句的な読み方すぎたかもしれないが、少なくとも私はこのように読んだ。
 最後に、『ねむ』の句と最近の作者の句とを比べてみよう。まず『ねむ』から。

   絹手袋指輪の玉のもりあがる
   革手袋はめていよいよ冷たき手

 自らの手を描写した句であるが、特徴的なのは、非常に客観的かつ具体的な内容となっていることだ。この特徴は、これまで読んできた『ねむ』全体について言えることだろう。客観的かつ具体的とは、写生の基本である。

   雨降つてくるがなにくそ芋煮会

 「童子」一月号より。こちらも同じく自分(を含めた一同)を描いた句だが、こちらは自分を軽く突き放して、その上で自分自身をも面白がる、人間としての大きさ、余裕のようなものが感じられる。この句の描写は客観的・具体的というのとはまた別種のものだが、この躍動感はどうだ。『ねむ』から十二年、作者の写生は深まり、辻桃子という人間自体もまた、深みを増しているのである。

 注)文中では鴎の正字(區+鳥)。


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