にへの説


 俳句は「てにをは」が大事、という言葉をよく聞く。俳句は他の詩形と比べても字数が少ないので、助詞一文字の持つ比重も、かなり重くなる。一文字一文字の表現にも心を配り、言葉を生かさなくてはならないのだ。といっても、「てにをは」を大事にするとは具体的にはどういうことかっていうと、よくわからない。特に、他の人はいざしらず、俳句を本格的に始めてようやく二年半というまだまだ駆け出しのひよっこである私には。そこで、ちょっと助詞の使い分けについて考えてみようと思う。

 「おら 東京さ 行ぐだ」の「さ」に代わる助詞として、「に」と「へ」がある。「東京に行く」「東京へ行く」。一見おんなじみたいだ。でもここで、だいたい同じようなもんだろうと片付けたのでは、はいそれまでよ、である。それに句会の席で、私の師である辻桃子は、ある句の「へ」を「に」に添削していた。これはまさしく、「に」と「へ」には使い分けるべき重大な差があるということを示す事実ではないか。
 ここで辞書をひいてみる。すると「に」の意味は場所・時・帰着点…、などと書いてある。「へ」は方向方角を示すと書いてある。このように簡潔に意味を示されてもわかりにくいので、ちょっと例文を作って考えてみる。
 「家に戻る」「家へ戻る」
 この二つの例文の意味は、ほとんど重なっている。ここではその重なっていない部分に焦点を合わせて考えてみよう。例文の内容を仮に下記のように項目で示す。
 1.買い物を終えデパートから出る
 2.バスセンターに行きバスを待つ
 3.あんまりバスが来ないからちょっと古本屋へ
 4.マンガを立ち読みし、結局『剣客商売』を購入
 5.『剣客商売』を読みながらバスに揺られる
 6.鈴虫の鳴くバス停にてバスを下りる
 7.わが家に到着
 以上の7項目の内、「家に戻る」が意味するところは、本来的には7.のみであろう。逆に「家へ戻る」は1.から7.まですべてを含んでいると言えそうだ。「に」はその動作の帰着する場所・瞬間を示し、「へ」はその動作の帰着する場所・瞬間までの、より広い行動を方向性の形で示しているのだ。もちろん、どちらかの意味でしかこれらの助詞を使えないというのではない。「に」と「へ」を使い分けるのならば、という意味での区別だ。
 このように考えると、瞬間を切り取るような内容の俳句には「に」の方が景がびしっと限定されて良いだろうし、より広い方向性で表現したい場合には「へ」の方が良いだろう。

 最後に、「へ」の使い方の最高に決まっている句を鑑賞したい。

     鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉     蕪村

 私が、好きな句を10句あげよと言われたら、間違いなく答えるであろう1句。「へ」によって、鳥羽殿へと続く、広がりのある景が見えてくる。騎馬武者と野分の躍動感も感じられる。もしこれが「へ」でなくて「に」であったら、何かせせこましい印象を受けそうだ。これも「に」の、場所を限定する働きのせいだろう。
 また数詞の働きもすばらしい。「ゴロッキ」という音の緊迫感。これは当然「トバドノへ」という硬質な上五の音と響きあっての緊迫感であるが、「ニサンキ」や「ジュウニキ」などではこの緊迫感は伝わらない。また、5・6という数詞の選択は、生理的にも非常に巧妙だ。人間が一瞬に数えられる数は4だそうで、一瞬見ただけでは5・6騎は数え切れないのである。よって、「五六騎いそぐ」という中七の表現から、その人数が正確に数えられないほどの一瞬に駆け抜けていった騎馬武者の様が見えてくる。そして季語の選択も絶妙。句末に据えられた切字も、絵巻風の景を詠嘆的にまとめて隙がない。
 蕪村の俳句を読んでいると、すごくゼイタクな気持ちになれて、心地良い。とほとんどベタボメに近くなってきたところで、今回はこれまで。


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