「ヌーッとした句、ボーッとした句」を考える

−文学「的」な句の対極に

 これまで俳句を読み、作ってきて、つくづく思うのは、文学「的」な句はつまらない、ということだ。文学「的」な句は、カレー「風味」のスナック菓子、すき焼き「風味」ふりかけみたいなもので、それらしい味付け・装飾がされているだけで、決して「文学」そのものではないし、本物ではない。本物の文学には、説得力と、迫力のようなものが備わっているものだ。それは、どうしようもなく、読めば解ってしまうことである。

 「ヌーッ、ボーッとした句」というと、例えば虚子の「春の浜大いなる輪が画いてある」のような、素朴・朴訥・飄々とした句をイメージしやすいが、決してそれだけではない。極言すれば、技巧・装飾に頼っていない句は全て「ヌーッ、ボーッとした句」だ(勿論、それが本物でなければ、「ヌーッ、ボーッとしてるだけの句」だが)。そういう意味で、私にとって「ヌーッ、ボーッとした句」と文学「的」な句とは、対極に位置するものだ。

   約束の寒の土筆を煮て下さい   川端 茅舎

 例えばこの句。病身の自分自身の心情をありのままに書いたこの句も、「ヌーッ、ボーッとした句」と言えよう。自分自身の心情という主観的な事柄でさえも、棒のように単純に、水のようにあっさりと描くことができれば、「ヌーッ、ボーッとした句」たり得るのである。


(「童子」2008年8月号掲載)


back
back.
top
top.