めし粒のながれてゆきぬ黄のあやめ
流れゆく飯粒が見えたのは、川の流れが澄み切っていたからに他ならない。そしてその流れのほとりには、すっくと黄のあやめが咲いている。
川を物が流れていくというモチーフの句としては、まず虚子の<流れ行く大根の葉の早さかな>が思い浮かぶ。「大根の葉」の句は、上五の「流れ行く」を下五の「早さかな」で受ける形。どこか一つの時点にピントを合わせるのではなく、動きそのものを一句にした形だ。それに対して「めし粒」の句は、澄んだ流れをすっ飛ぶように流れ去る飯粒と直立する黄のあやめという、物自体の方に重きを置いた作りになっていることが読み取れるだろう。
辻桃子は「徹底写生」という言葉を掲げ、物をよく見、とことんまで写生することによって、これまでの写生句を超えようとしてきた。それは、今しかないこの現実に真正面から向き合うことによって、その瞬間の作者にしか書くことのできない句を書く、ということでもある。「めし粒」の句からも、作者のそうした姿勢が伝わってくる。目の前の景をよく見、余計な言葉一つなくまとめられたこの句は、この句そのものが、直立するあやめのように何にも頼ることなく自立している。何とも清々しく、気持ちの良い一句だ。
(本阿弥書店「俳壇」2005年7月号掲載)
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