辻桃子 小論

 エッセイ集『俳句って、たのしい』の中で、初めて

  ケンタッキーのをぢさんと春惜しみけり    桃 子

の句に出会ったとき、ふっと頭をよぎったのは

  行春を近江の人とおしみける         芭 蕉

であった。共に春の終わりを惜しむのに最も相応しい相手の存在する芭蕉の句は、「贅沢」と言いたいほどに豊かである。それに対して桃子の句では、目の前に存在しているのは、共に春の終わりを惜しむのには最も相応しからぬ相手だ。なんと言っても一年中おんなじ顔なのだから。しかし、実際はそのためにかえって春の終わりを惜しむ気持ちが強まるということだってある。辻桃子という作家は気が利いてるな、と感心したのを今もはっきりと覚えている。
 私が「童子」に入会したのは一九九八年の夏。それ以降は何よりもまず「童子」誌面によって辻桃子の句を読むようになる。

  めし粒のながれてゆきぬ黄のあやめ      桃 子

「童子」一九九八年九月号においてこの句に出会って、私が俳句に求めていたものはこれだ、と強く感じた。
 読み手が「これは俳句だ」と認識できる範囲で言葉を並べさえすれば、それを俳句と言うことができるだろう。そういう意味では、俳句では何だって書くことができるし、自由だ。しかし、既成の認識に捕らわれた目から生まれた俳句は、何らかの思想や感情に要約されてしまうだろう。文脈の中に、絡めとられてしまうのである。結局のところ、そういう句は、明文化されてはいないが書き手の中に存在している散文の中の単なる一部分に過ぎないからだ。それは純粋な意味においての創造ではない。
 「めし粒」の句は、この句そのものとして完結性を持っている。この句を何らかの思想や感情に要約することはできない。私が求めていたのは、こういう俳句なのだった。私はそれまでに詩や童話を書いていたが、それらのジャンルでは、その作品それ自体としてしか存在し得ないようなものは書ける気がしなかった。書いていくうちにどんどん不純物が混入し、自分で自分を汚していくような、その上、他にどうすることもできないような、絶望的な気持ちになっていくばかりだったのだ、とここで私の暗い身の上話をしていてもしょうがないな。
 辻桃子の句の持つ高い完結性はやはり、よく見ることから生まれているのだろうと思う。そのことは、徹底写生を唱え、自然詠を実践している辻桃子自身が最もよく理解していることだろう。

   足進み蟻の体の進みけり       桃 子

この句を読んだとき「あ」と思った。ここまでものを凝視する姿勢があらわになっている句は、よく見ることを旨とする辻桃子の句の中でも珍しい。しかし、たとえ句の表面にあらわになっていなくとも、辻桃子は常にものを凝視していたのだ。この句を読んだとき、そのことがわかった。考えて理解したと言うより、実感としてわかってしまったのである。それが「あ」という声になったのであった。
 ただ、個人的には、ものを凝視する姿勢があまりにあらわになっている俳句には、共感できない。それは、読み手として、「何か」を書き手と共有することができない印象を持ってしまうからだ。
 そういう意味で、辻桃子は、凝視することによって作品に独自性を持たせながら、その多くの作品において読み手である私に「何か」を共有させてくれる、稀有な作家なのである。


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