「句集」の問題

−高浜虚子『五百五十句』を読む−


 俳句初心の頃、といっても私はまだまだ初心者なので、初心初期の頃といった方が正確だろうか、岩波文庫の虚子五句集(上)・(下)を読んだことがある。なぜ虚子を読んだかといえば、それは文庫で安く手に入るからで、とりたてて虚子への傾倒があるわけでもなかった。
 そのときの感想は、良い句もあるが、どうにも退屈な句が多く、一言で言えば緊張感に欠けている、というようなものであったと思う。そしてそのときに、どの句よりも強く印象に残ったのは『五百五十句』の序文であった。まずその部分を引くと、

  ──『ホトトギス』が五百五十号になった記念
  に、その後の私の句の中から五百五十句を選み
  出してそれを出版して見ようかと思い立った。
  思い立ってから大分日がたった。この月出てい
  る『ホトトギス』は五百六十一号になっている。
  それはどうでもいいとして、昭和十一年から昭
  和十五年まで約六年間の間に五百五十句を選ん
  だのであるから、前の『五百句』の約四十五年
  の間の句の中から五百句を選んだのに比較して
  見て少し精粗の別がないでもないが、要するに
  記念のための出版であって、その他の事は格別
  厳密に考える必要もないのである。『五百五十
  句』という書物の名にしたけれども五百七、八
  十句になったかと思う。それも厳密に考える必
  要はないのである。
   私は本年古稀である。自ら古稀の記念ともな
  ったわけである。──

まず引用中五行目の「それはどうでもいいこととして」、「どうでも良かぁないだろう」と思った方も多いことだろう。私もその一人だ。句数五百七、八十句、『ホトトギス』も五百六十一号とあっては、この序文がなければこの句集のタイトルがなぜ『五百五十句』なのか、永遠の謎となることであったろう。ずぼらである。最後に記された「自ら古稀の記念ともなった」という理由などは、完全に後付けの理由ではないか。
 と、少し感情的になってしまったが、要するに、この序文から読み取れる虚子のずぼらさが、私としてはとても嫌だったのを今でもありありと思い出す。
 それにしても、いったい「句集」とは、何なのだろうか。「句集」という文芸作品は、「句集」という発表形態は、どのような意義を持っているというのだろうか。小説は、一つの作品によって一冊の本として書店に並ぶものもあるというのに、俳句は、何百という作品が寄り集まってはじめて一冊の本になることができる。この差は何だ。何だか悔しい気がする。
 これは、いつ頃からか私の心の中に位置を占めるようになった疑問であるが、もしかすると、その発端となったのはこの虚子の序文であったかもしれない。
 しかし、今こうして読み返してみると、虚子の序文はこの疑問に対する解答をも示唆しているようにも読める。つまり、句集という発表形態そのものにはそれほど意味はない、ということだ。たとえば、句碑でも短冊でも色紙でも良い、一つの俳句作品が読み手を得られる状態に置かれていること、それが必要十分条件ではないだろうか。虚子のこの、句集出版に対するこだわりの無さ加減は、そういう意識の表出であるかもしれない。単純に制作日時の順に句を並べていく句日記体という配列方法も、句集という形式に対するこだわりの無さの表れのように思える。そしてそれは、俳句は五七五だけで自立するべきものという意識の裏返しなのではなかろうか。
 少し話が大きくなりすぎたようだ。ここからは、一句一句作品を読んでいくことにしよう。

   我心春潮にありいざ行かむ

 どこか似ている。

   熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひ
   ぬ今はこぎ出でな        額田王

に。しかし、それも当然のことだろう。これから船出しようとする人間の気持ちは、千年前だろうと現在だろうとそんなに違うものではない。それをあっさりと句にしてしまえるのは虚子の強みだ。

   稲妻のするスマトラを左舷に見

 一連の旅中吟の中で最も好きな句だ。勢いがある。一本の棒のように一直線に言い下すその言い様が、広々とした空に一気に伸び広がる稲妻の勢いとシンクロしている。

   よく見たる秋の扇のまづしき絵

 どうということもない句のようだが、何度も読んでいるうちに、景がとてもはっきりと浮かんでくる。それは、「扇のまづしき絵」をよーく見るという一つの行動が、まだ残暑の厳しい時期の無気力な状態を、とても具体的に想像させてくれるからだ。
 季語の持つ力を十分に引き出し、描写も端的で確かであり、虚子の俳句がますます自在になってゆくのが手に取るようにわかる。


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