松 本 て ふ こ の 世 界

−繊細さと誠実さと

 気を悪くしないでいただきたいのだが、てふこは私と似たタイプの人間ではないだろうか。理由は後に述べるとして、早速てふこの句を読んでみよう。

 一読、感覚的な句が多い。

  鞄屋に革の匂ひや春の星
  しやぼん玉上くちびるの苦味かな
  足裏の血管太く昼寝かな
  まばたきをゆつくり九月十一日
  ピアニカの吹き口濡れて運動会
  ゆたんぽにきのふの温度ありにけり
  初詣リップクリームやはらかき
  靴紐の地を打つ音や冴返る

視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚のアンテナの感度を目一杯高めて句を作っているのではないかとも思われる。例として挙げた句に特に顕著だが、それ以外の多くの句も、てふこ独特の繊細な感覚に満ちみちている。例えば「夜の縄飛びの恥づかしさうに鳴る」。「夜の縄飛び」の音が「恥づかしさう」だとは、繊細なだけでなく、洞察力もずば抜けている。

 しかしこれらの句、感覚的でありながら、不思議なほどに、官能的だとは感じない(他の作り手の感覚的な句は、多くの場合官能的である)。てふこの感覚的な句からは、例えば、小さな子どもが、「何か」を初めて目にし、手に触れて見、匂いを嗅いで見、転がしたり投げたりして、その「何か」と自分との関係が初めて形成されるときの喜びに近いものが感じられる。句を作ることによって、句に詠み込んだ「何か」と自分との関係を形成していくのである。逆に、対象とそういう関係を形成することができなければ、句に詠み込むこともない(そのせいか身近な景が多く、大景の句は少ない)。

 そこから、てふこという人間の、慎重さ、臆病さ、誠実さが見えてくる。世の中で普通に通用しているような事柄でも、実際に自分でやってみるまでは信用しない、納得しない、そんなパーソナリティが窺われるのである。私が「似たタイプの人間」と感じたのも、そこだ。私も、句を作ることによって一つ一つの対象との関係が築かれ、少しずつではあるが確実に世界が広がってゆくのを感じながら、書いてきた。

 「書く」とはどういうことか。それは、「書く」前と「書く」後とで、書き手にとって世界が(ほんの少しでも)変わる事。そうでなきゃ「書く」意味がない。そういう意味で、てふこの句はまさに「書く」行為の所産であり、「書く」喜びの感じられるものだ。

 最後に、集中最も私の心に残った一句を。繊細な感覚と季語の持つ広がりとが、見事に働き合っている句だ。

  ひらがなの名のひととゆく花野かな


(「童子」2008年8月号掲載)


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